2020年07月04日

120字の映画館No.24  三船敏郎 その2~「銀嶺の果て」

 監督:谷口千吉
 製作:東宝 1947年
 出演:志村喬、小杉義男、三船敏郎、若山セツ子、河野秋武、高堂國典
銀行を襲った男たちは大金をせしめ、厳冬の雪山に身を隠す。彷徨の末に見つけたのは、雪原に立ち昇る一条の煙!山小屋の住人に暖かく迎えられるも、凶悪の本性は次第に露見する・・・荒れ狂う吹雪、凍てつく寒さ、山頂の夜明けの静謐―荘厳な山のいとなみに、人の尊厳の甦るさまが重なる、山岳ドラマの傑作!!

「銀嶺の果て」(1947年)ポスター.jpg


 この映画で特筆すべきは、のちの日本映画界に多大な貢献を果たす、3人の人物がデビューした、ということでしょう。

 まず監督の谷口千吉。
 1912年東京に生れ、早稲田大学卒業後、1933年PCL(Photo Chemical Laboratory 東宝の前身)に入社。
 助監督時代を経て、初めて手がけた監督作品が、この「銀嶺の果て」です。
 その後「ジャコ萬と鉄」(1949年)、「暁の脱走」(1950年)、「男対男」(1960年)、「大盗賊」(1963年)、「奇巌城の冒険」(1966年)など、東宝のアクション系娯楽作品の傑作をものにしてきました。
 結婚歴は3回あります。最初の妻は、脚本家として数々の名作映画に名を刻む水木洋子。二番目は「銀嶺の果て」にも出演した女優・若山セツ子。最後の、そして生涯の伴侶となったのが、彼の「乱菊物語」(東宝 1958年)に出演した女優・八千草薫。
 ゴシップ的な話題にも事欠かなかったようです。
 ところが創作活動には恬淡としたところがあったのか、1970年代になるとほとんど映画を撮ることはなくなり、半ば忘れられた存在となって、2007年歿、95歳でした。
 昨年(2019年)、八千草薫さんが亡くなったとき、谷口千吉とのおしどり夫婦ぶりが取り上げられ、久しぶりにその名を耳にすることになりました。

 次に音楽の伊福部昭。
 1914年北海道釧路町(現・釧路市)生れ。北海道帝国大学在学中から器楽の作曲を始め、以降、管弦楽、吹奏楽、室内楽、器楽、声楽などで、膨大な作品を残しました。2006年歿、91歳。
 私ぐらいの世代でもっとも馴染み深いのは、映画音楽での旺盛な活躍ぶりでしょう。
 最も有名なのは、「ゴジラ」シリーズになりますかね(♪ドシラ ドシラ ドシラソラシドシラ)。しかし「大魔神」三部作にも携わっています。東宝と大映―双方の特撮映画の、大看板に名を連ねるというのも、凄いことです。
 その彼が、初めて手がけた映画音楽が、やはりこの「銀嶺の果て」なのです。

 そして三船敏郎。デビュー作にして、すでに主役級。
 1920年、中国・青島生れ(両親は日本人)。父は写真館を営み、彼もまた兵役中に写真工手の経験があって、終戦後復員すると、東宝の撮影助手に応募します。ところがなにかの手違いで、俳優の第1期ニューフェイス候補として、採用試験を受けることに―
 面接時の態度がふてぶてしく不合格となるも、当時の看板女優・高峰秀子や新進監督・黒澤明の強引な推挙が功を奏し、一転して合格した―という逸話があります。(三船敏郎のいない「七人の侍」や「用心棒」は想像もつかないので、このとき不合格のままだったら・・・と考えると空恐ろしくなります)
 本人としては役者になるのはまったく不本意で、「銀嶺の果て」にも嫌々ながら出演。
 しかしその後の活躍は・・・

 三船敏郎出演の映画については、これからも幾つか取り上げてみたいと思いますので、そのときに。

 さて、「銀嶺の果て」です。
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2020年06月15日

120字の映画館No.23  三船敏郎 その1~「レッド・サン」

 原題:英語版 Red Sun, 仏語版 Soliel Rouge
 監督:テレンス・ヤング
 製作:仏・伊・西合作 1971年
 出演:三船敏郎、チャールズ・ブロンソン、アラン・ドロン、ウルスラ・アンンドレス

日米修好のため渡米した、日本の使節団を乗せた列車が強盗団に襲われた。奪われたのは大統領への献上品、黄金の刀!!奪還の命を受けたサムライ・黒田重兵衛は、仲間割れした強盗団のひとりと奇妙な友情を結びつつ、その首領を追いつめる。アパッチの襲撃!燎原の対決!!銃が勝つか、太刀が勝つか?
「レッド・サン」(1971年)ポスター.jpg

 三船敏郎の凄さを知ったのは、学生の頃に観た「酔いどれ天使」(黒澤明 東宝1948年)―という話は、以前このブログで書きました。(120字の映画館No.03~黒澤明その1 「酔いどれ天使」
 ですが小学生の頃から、父に連れられて観たり、友だちと連れ立って観に行ったなかにも、三船敏郎出演作は結構ありました。

 「日本のいちばん長い日」(岡本喜八 東宝 1967年)
 「黒部の太陽」(熊井啓 三船プロ/石原プロ 1968年)
 「連合艦隊司令長官 山本五十六」(丸山誠治 東宝1968年)
 「太平洋の地獄」(ジョン・ブアマン 米1968年)
 「風林火山」(稲垣浩 三船プロ1969年)
 「日本海大海戦」(丸山誠治 東宝 1969年)
 「座頭市と用心棒」(岡本喜八 勝プロ 1970年)
 「激動の昭和史 軍閥」(堀川弘通 東宝 1970年)

などがそうです。

 三船敏郎が私財を投じて映画やテレビドラマの制作会社・三船プロダクションを設立し、「赤ひげ」(東宝/黒澤プロ 1965年)を最後に、黒澤明作品への出演が途絶えた時期にあたります。
 彼が邦画界だけでなく、国際的にも高い評価を得ている俳優という認識は、私のなかで徐々に醸成されたようです。
 このうち「黒部の太陽」は、父の勤めていた工場に撮影セットが組まれ、その現場見学に行ったことがある―という思い出も、以前の記事(一枚の写真から)で触れました。
   
 高校時代になると、友人と観に行くのは洋画主体となります。(たまにひとりでこそこそ、関根(現・高橋)恵子さんや、夏純子さん主演の映画なども観に行きましたが) 
 この頃の、唯一の三船敏郎出演作といえば「レッド・サン」でした。(以降しばらく、活躍の舞台はテレビ時代劇に移り、映画での俳優業は休止状態となります)

 日本では前年の「雨の訪問者」(ルネ・クレマン 伊・仏 1970年)あたりから注目され、「う~ん、マンダム」のCF(監督は大林宣彦!)で大ブレイクしたチャールズ・ブロンソン。

 フランスを代表するニヒルな二枚目俳優、アラン・ドロン。「D’urban, c’est l’élégance de l’homme moderne.」のCFもこの頃です。

 そして多言は無用、世界のミフネ。「男は黙ってサッポロビール」です。

 この3人に絡むのが初代ボンド・ガール、ウルスラ・アンドレス。監督は007シリーズの初期3作品を手掛けたテレンス・ヤング。

 絢爛豪華な顔合わせも、日本のサムライが西部劇で活躍するという破天荒なストーリーも大変な話題になっており、私もぜひ観たいと思っていた折に―

 中学時代の同級生から「次の日曜、映画行かない?」と持ち掛けられました。
 確か「小さな恋のメロディ」とか「フレンズ~ポールとミシェル」とか、そんな類の題名が上がったと思いますが、やんわりと拒絶。
 だめもとで「レッド・サン」を押すと、意外にもすんなりOKとなりました。
 併映が「特攻大戦線」(ヴァレンティノ・オルシーニ 伊 1970年)という作品で、彼女がこちらに主演するジュリアーノ・ジェンマのファンだったらしい。

 導入部の、強盗団の列車襲撃からテンポ良く話が進みます。
 強奪された献上品奪還の命を受けたサムライ(三船敏郎)と、仲間に裏切られ復讐に燃える強盗団の片割れ(チャールズ・ブロンソン)とが、共通の敵(アラン・ドロン)を追って荒野の珍道中を繰り広げます。

 日本人とアメリカ人、武士の矜持とならず者の沽券、謹厳実直と放縦懶惰・・・

 出自やキャラクターの異なるふたりが、図らずも同道することになり、そのギャップから生ずる対立や、やがて奇妙な友情が芽生える過程に、何とも言えぬ可笑しみがあります。

 ちなみに男同士の友情を男女間の恋愛に置き換えると、「或る夜の出来事」(フランク・キャプラ 米 1934年)や「三十九夜」(アルフレッド・ヒッチコック 英 1935年)になりますね。
 このプロセスだけを閉鎖空間で描くと、前述した「太平洋の地獄」になります。こちらは緊迫感を孕んだ深刻劇ですが。

「レッド・サン」は、3人の主役の持ち味を随所に活かしながら、全体としては三船敏郎と武士道精神へのリスペクトに満ちた異色の西部劇となりました。(ハリウッド製ではなく、撮影もスペインで行われているので、マカロニ・ウエスタンの変種といったほうが当たっているかも)

 ―と、差し障りなくまとめてみましたが、実はこの映画館での初見のときには、あまり愉しめなかった記憶があります。
 隣の席の様子が気になって、画面に没入できなかったのです。
 会ったときから妙におとなしい、会話がぎこちない。
 緊張してるんか?―と思っても、それを解きほぐすすべは知らず、逆にこちらにも伝染して・・・

「レッド・サン」が終わって、彼女のほうのお目当て「特攻大戦線」が始まるともういけません。
 第二次大戦中のイタリアのレジスタンス運動を描いた、重苦しい気の滅入るような内容で、半分も観ないうちに彼女が席を立ちました。
「気分が悪くなったから先帰るね」
 駅の改札を抜けていく姿を、悄然と見送ったものです。
 ほろ苦いばかりの初デート―もっとも彼女からは事前に、「これはデートの予行演習だからね」と宣言されていたので、ひょっとしたらデートではなかったのかも知れませんが。
 本番ではうまくいったのかしらん?

 当時の自分への通信手段があれば、デートで映画観るなら「小さな恋のメロディ」路線にしておけ、と助言するでしょうね。

 その後テレビで観返して、あらためてこの映画の面白さを認識しました。
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2020年06月07日

120字の映画館No.22 新東宝映画 その3~「世界の母」

 監督:野村浩将
 製作:新東宝 1958年
 出演:小峰千代子、宇津井健、三ツ矢歌子、小畑絹子
父の犯した罪を被って服役した三男・修三は、刑期を終えるや、母の面影をあとに、職を求めて旅立った。だがその留守中に、母の境遇は一変する。多額の負債を残して夫は死に、長男家、次男家と身を寄せるも、降りかかるは冷たい仕打ち。やがて路頭に迷う母に、幸せな日々は巡らぬか?修三はいま何処?
「世界の母」(1958年)ポスター.jpg

 何と云う映画だったのだろう?

 私が小学1年か2年のときにテレビで観たきりで、ほんの断片的なシーンのいくつかと、そこに登場していた何人かの役者の顔を、ぼんやりと覚えている程度。

 慈しみ大切に育ててきた子どもたちから、長じては厄介者として疎んぜられる老母の哀れさ切なさを描く悲劇―
 そんな内容だった気がしますが、乏しい記憶を勝手な想像で補っただけかも知れません。

 物語の終盤―
 雪の降りしきるなか、老母が我が子の家を訪ねていくのですが、一家団欒の様子を外から窺ったきりで、来た道をとぼとぼ引き返して行く・・・
 そんなシークエンスが確かあったはず。

 「何と云う映画だったのだろう」と気になりながら、数十年の時を経て―

 実家で、我が家の老母を囲み、みなで昔話に花を咲かせていたときのこと。
 最近の出来事は右から左に流れて何も残らない代わりに、昔のことはわりと鮮明に覚えているらしく、「小さいころ、こんな映画を観たんだけど」と、私がおぼろげな記憶をぽつりぽつり話していると、
「ああ、「世界の母」と云う、宇津井健が出た映画だよ」と、母がこともなげに言うので、びっくりしました。
「おまえがこの映画で、オイオイ泣いていたんでよく覚えとる」そうで。
 喉に引っ掛かった小骨が、ようやくとれた思いがしたものです。
 
 確かに宇津井健が出演していました。それも兄弟の中で唯一母思いの、気の優しい正義漢の役。
 このときの好印象があったからでしょう、後々テレビドラマなどで宇津井健の姿を見かけると、なにかこう、暖かい気持ちになったものです。
 ただし見かけるたび口癖のように、「いつまでたっても〇〇役者だな」と漏らすので、家人から呆れられたものです。実はこれ、深い親愛の情に裏打ちされた表現ですので、ご容赦を。
 
 「世界の母」を再見する機会はありませんでしたが、後にその紹介文などを読むと、もう少し込み入ったストーリーのようです。
 また悲劇的な展開ながら、最後は大団円で終わる感動作らしい―そうした部分はまったく記憶に残っていません。
 
 それにしても「世界の母」とはずいぶん大仰なタイトルです。新東宝らしいといえば、らしいのですが。

 監督の野村浩将は、戦前に松竹蒲田で監督デビューし、松竹大船に異動し「愛染かつら」(1938年)の大ヒットを記録、戦後は新東宝に移籍して文芸物、戦記物、アクション物など多彩な作品を発表した方。
 新東宝時代の「潜水艦ろ号 未だ浮上せず」(1954年)と「戦雲アジアの女王」(1957年)は、かつて大井町にあった大井武蔵野館で観たことがあるので、いずれ紹介してみたいと思います。
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2020年02月18日

120字の映画館No.21~黒澤明その7 「七人の侍」

 監督:黒澤明
 出演:志村喬、三船敏郎、木村功、加東大介、宮口精二、稲葉義男、千秋実、津島恵子、島崎雪子、土屋嘉男、藤原釜足、高堂国典
 製作:東宝 1954年

野武士の略奪から村を守るため、百姓たちは侍を雇った!名誉とも恩賞とも無縁な戦―だが軍師・勘兵衛のもとに集結した侍たちは、命を賭して野武士の群を迎え撃つ!!打楽器が不穏に鳴り響く開幕から、田植囃子が朗々と謳い上げられる終幕まで、観る者に眠気も息つく隙も与えない、至高の傑作時代劇!!!

映画ポスター 七人の侍.png

※初公開時のポスター

 先日、息子とふたりで観てきました。
 学校も部活も休みとかで、「映画でも観に行くか?」と持ちかけると乗って来たので、さっそく上映スケジュールを検索すると、まさしく「七人の侍」が上映中ではありませんか。
 「午前10時の映画祭」という連続企画の一本です。

 一昨年にも同様のシチュエーションで「椿三十郎」を観に行ったことがあります。普段は映画を観ても感想など喋らない息子が、「この映画、気に入った」とぼそっと呟いたのは、よほど感ずるものがあったのでしょう。黒澤明の名はこのとき、しっかりインプットされたものと思います。
 即座に「行こう!」となりました。

 観る前に息子に言ったのは、「百姓が侍を雇って野武士から村を守ってもらう話」「「七人の侍」を観ずして映画を語るなかれ」、そして「3時間以上の長い映画だから先にトイレに行っておけ」の三つだけ。

 場内は7割程度の入り。やはり年配者が多いものの、私らのような親子連れもちらほらと。欧米系の外国人の姿も見かけました。

 休憩時間に「なんで村に隠してあった鎧や刀を見つけたとき、侍たちが怒り出したのかわからん」と息子が聞くので、落ち武者狩りについて若干の補足説明。

 観終わったときの息子の感想は「戦闘場面が短すぎた」というものでした。
 確かに侍・百姓連合軍と野武士軍との本格的な戦が始まるのは、全篇の三分の二を過ぎるあたりから。
 初っ端から見せ場見せ場の連続で観客の興味を繋ぎとめる、今どきの娯楽大作を観慣れた者には、あまりに悠長な展開に思えたかも知れません。
 ですが3時間半の長丁場に飽きることなく、最後までしっかり映画に没入していた様子でもありました。

 「最初に薪割りの人」「次に副官のような侍」「三番目に剣の達人」「最後に菊千代が半ケツ出しながら」と、戦に散った四人の侍を順番に挙げて、「みんな鉄砲でやられてるじゃん」と指摘できるほどには、プロットを追いかけていたようです。(二番目の五郎兵衛が撃たれる場面はありませんが、遺体が運ばれるシーンの直前に2発の銃声が響きます)

 私がこの作品を初めて観たのは学生時代。

 昭和29年(1954年)初公開後、これを海外の映画祭に出品する際、規定に沿って2時間40分の短縮版が作られたそうです。
 以降は国内でも、この短縮版での再上映が一般的だったようですが、昭和50年(1975年)、久々に3時間27分のオリジナル版での再上映が全国的に始まりました。
映画パンフレット 七人の侍.png

※オリジナル版リバイバル上映時のパンフレット

 このとき「「七人の侍」を観ずして映画を語るなかれ」とのたまっていた映画通の友人がいて、私は「おまえが観たのは短縮版だろ」とばかりに彼を出し抜き、映画館に駈けつけた・・・
 観終わった後に「侍のテーマ」を口ずさみながら、意気揚々と帰宅したことを思い出します。

 観るたびに新しい発見がある―というのは、世の傑作名作を評するときの常套句のひとつですが、「七人の侍」がまさにこれ。
 40数年前の初見以来、機会があるたびあちこちの映画館に足を運び、レーザーディスクやDVDでも視聴しました。
 何度観ても飽きさせない魅力について、次回もう少し書き留めてみたいと思います。
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2019年05月18日

120字の映画館No.20~ヒッチコックその4 「知りすぎていた男」

 原題:The Man Who Knew Too Much
 監督:アルフレッド・ヒッチコック 製作:アメリカ 1956年
 出演: ジェームズ・ステュアート、ドリス・デイ

モロッコの町で謎の言葉を託されたがために、国際的陰謀に巻き込まれたアメリカ人夫婦。警察に頼るも、息子が誘拐された!ロンドンでは要人暗殺の計画が進む。父親の執念、母親の機転で息子の奪取なるか?計画は阻止できるか?コンサート会場に合図のシンバルは打ち鳴らされた!!

知りすぎていた男・映画ポスター.jpg


 家族そろって楽しめる、ヒッチコック会心の娯楽作品です。ひたすらクライマックスに向かって緊迫感を高めていく、直球ど真ん中のサスペンススリラー。

 イギリス時代の作品「暗殺者の家」(1934年)を語り直したセルフリメイクだけに、押さえるべきツボはより適確に、出演者もスケールも技巧も、より絢爛豪華なものにグレードアップされています。

 この映画では、音楽が重要な役割を果たしています。

 ひとつは、誘拐された息子の居所を探る母親(ドリス・デイ)-かつては有名な歌手だったという設定―が、某国の大使館に招かれるところ。

 彼女は、どうやらこのなかに息子が拉致されているらしい、と睨んでいます。
 そこで彼女は歌―有名な「ケ・セラ・セラ」-を披露するのですが、居並ぶ人々がニコニコと聞き惚れるのを尻目に、次第に声量を上げ、館内の隅々まで響き渡るような声で歌い上げていくのです。
 奥まった部屋に閉じ込められていた息子が、懐かしい母親の歌声に気づいて・・・という場面。


 この、ドリス・デイのために用意された「ケ・セラ・セラ」は、世界的な大ヒットとなり、アカデミー賞の歌曲賞も受賞しました。

 もうひとつは陰謀団が、コンサート会場で要人暗殺を決行しようとするシークエンス。

 演目の交響楽の終盤に、ただ一度だけシンバルが打ち鳴らされる個所があるのですが、そのシンバルを合図に、狙撃者の銃が火を放つ―という寸法です。
 陰謀団のアジトでリハーサルが繰り返されるシーンがあるので、映画の観客も事前にその段取りを知っており、演奏が始まるや、いまかいまかとハラハラしながら音を追いかけることになります。
 それを煽るように、カメラは音符の跳び跳ねる譜面を大写しにし、やがてシンバル奏者の姿を捉えます。彼がピクリと動くと、「ついにか」と観客もピクリとする―そんな演出。
 しかしその瞬間に鳴り響いたのは、またしても母親の歌声―ではなく、悲鳴!

 このときの楽曲も、この映画のために用意されたもので、ヒッチコックに重用された作曲家、バーナード・ハーマンの「カンタータ~嵐雲」という作品。

 というわけで、一家の父親役ジェームズ・スチュアートを差し置いて、映画の役柄だけでなく、実生活でも歌手として活躍していた母親役のドリス・デイを、徹底的にフィーチャーした作りになっています。

 この映画を私は、有楽町の映画館で初めて観て、その後あちこちで繰り返し鑑賞しました。なぜかヒッチコック作品の初見は、日比谷か有楽町でと決めていたようです。

 しばらくのあいだ門外不出となっていた、ヒッチコックのパラマウント時代の作品が、続々とリバイバル上映された1984年ごろのことです。

 そのドリス・デイ(Doris Day)が先日(2019年5月13日)、97歳で亡くなったとの報がありました。

 まだ存命していたのか、という驚きのほうが先に立ちましたが、次に思い浮かべたのは、先にも記した名曲、「ケ・セラ・セラ」を朗々と歌い上げる、この映画のワンシーンでした。

 子を思う母親の必死さがぐいぐいと胸に染み入り、ヒッチコック映画では珍しく、ウェットな感動をもよおしたものです。

 ドリス・デイといえば、古き良き時代のハリウッド映画を代表するコメディエンヌというイメージですが、実はこれまで私は、彼女の主演映画としては、この「知りすぎていた男」以外に観たことがないような気がします。
知りすぎていた男01.jpg

 この作品での、ユーモアたっぷりの良妻賢母ぶりから、他の作品の役柄も、典型的なアメリカ中流家庭の、健全活発なお嬢さん役や、明朗闊達な奥様役を連想するのですが、どうなのでしょう。

 ミュージカル映画「カラミティ・ジェーン」と、ケーリー・グラントと共演した「ミンクの手ざわり」は、観てみたい気がします。

 歌手としての代表曲では、「ケ・セラ・セラ」の他に、「センチメンタル・ジャーニー」が有名ですね。

 いずれも昭和30年代、日本の歌手(松本伊代に非ず)が盛んにカバーしているのを耳にしたものです。
 オリジナルがドリス・デイだったとは、当時はまったく知りませんでした。

 ともあれ京マチ子さんに続いて、銀幕を彩った懐かしの大スターがまたひとり地上を離れ、シネマ座とでも言うべき星座の一角に、輝きを灯すことになりました。

 謹んでご冥福をお祈りいたします。
posted by Pendako at 22:25| Comment(0) | 120字の映画館 | 更新情報をチェックする
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