2018年08月31日

山田風太郎の飯田時代~「戦中派不戦日記」より その5(最終回)

(承前)

戦時下の生活
 飯田のような片田舎でも、戦時色はいたるところに滲み出ています。

「きょうも真昼の町を出征の兵士がゆく。児童の行列がそれにつづく・・・笛や太鼓を鳴らし、可憐なのどをあげて唄いながら歩いてゆく」(7月20日)

「英霊凱旋にや、町の家々国旗を出し喪章を付す」(7月27日)

 空襲警報は毎日のように鳴り響いていました。

「飯田にてもしばしばサイレンや半鐘鳴る。ラジオの「敵は飯田南方を東進中」などという声も聞ゆ。・・・少数機ずつを以て殆ど日本全土を終日乱舞しあるがごとく思わる」(7月1日)

「昨夜も、一昨夜も深夜町は空襲警報に騒然たり。タイヒーッ、タイヒーッとの叫びも夢うつつにきく。東京でいやというほど鍛えられたれば、蚊の鳴くほどにも感ぜず・・・」(7月4日)

 実際には、長野県内ではこの年の8月13日、長野市と上田市に艦載機による空襲があっただけで、飯田市は爆撃を免れました。

「北陸を襲いたるB29、南方脱去の際、しばしば飯田上空を通過す」(7月17日)

 伊那谷はむしろ、米軍爆撃機の通い道だったようです。
 B29の編隊が北に向かって、さほど高くない空を飛んで行くのを、私の母親も何度か目撃したと言います。
 憎々しげに「しばらくすると身軽になったB29が、反対方向へ帰って行くんだに」と母。
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2018年08月29日

山田風太郎の飯田時代~「戦中派不戦日記」より その4

(承前)

飯田線
 山田青年は、日記で見る限り次のようにして飯田線に乗車しています。

  辰野駅⇒飯田駅  疎開のため新宿で乗車した中央線から乗り継ぎ(6月25日)
  飯田駅⇔天竜峡駅 級友数人と連れ立って天竜峡に一泊旅行(7月25・26日)
  飯田駅⇒豊橋駅  帰省のため豊橋へ。東海道線に乗り継ぐ(9月2日)
  豊橋駅⇒飯田駅  帰省より戻る(9月13日)
  飯田駅⇔天竜峡駅 親友と連れ立って天竜峡に一泊旅行(10月16・17日)
  飯田駅⇒辰野駅  疎開から帰京(10月18日)

「やがて天竜川を電車は走り渡る。トンネルもある。掘りぬいた岩石に黒く滴が光って、窓際の者の頬に冷たいしずくが吹きかかる」(7月25日)

「めちゃくちゃに短いトンネルが多い。飯田から豊橋への鉄道の半分はトンネルではないかと思われるほどである。神経衰弱になりそうなほど多いトンネルの間から瞬間的に見える風景は、まあいわゆる奇勝といってよかろう・・・」(9月2日)

「信号燈の光のなかを光りつつ降る雨、モクモクと湧き立つ真っ白な蒸気、交錯する鉄路の重厚な反射、ゆきちがう怪物のような機関車。―自分は天竜峡よりも、一瞬うしろに消えていった豊橋駅の夜景のほうに、遥かに美を―感動すら覚えた」(同上)

「飯田線に乗る。・・・明日あさってにも別れを告げるせいか、静かな南信濃の風景は、眼に沁みるほど美しかった」(10月16日)

飯田線 天竜峡行.jpg

※現在の飯田線 天竜峡行列車(提供 : photo AC)


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2018年08月28日

山田風太郎の飯田時代~「戦中派不戦日記」より その3

(承前)

飯田駅の少女駅員
 飯田駅に、山田青年は頻繁に行き来しています。
 貨物車輌から荷受けするためだったり、物見遊山に出かけるためだったりするのですが・・・

「駅の切符切りの少女、外人めきたる美少女にして笑めば歯美し。学生を見ればおどおどと恥ずかしげなるが面白く、みな大いに色めき立つ」(6月28日)

「Aがいう。「あの切符切りの娘だがね・・・駅でぶらぶらしているおれを、じっと見ている。こちらで見ると眼をそらすが、しばらくするとおれを眺めている・・・」するとBが「ばかだなあ、貴様、あれならおれにも妙な眼つきをしていたぜ」すると、おれもおれもという連中が続出して、みな唖然となり、かつ笑い出した」(同上)

「僕たちは遠くから、切符切りの少女駅員を鑑賞する。飯田駅随一の美少女だそうで、眼は非常に大きい、肌は蒼味がかって見えるほど白い。笑うとひどくエキゾチックな顔になる」(7月25日)

 見かければ気になるらしく、この少女駅員は日記に何度も登場します。

 終戦直後には、

「今日飯田駅で兵隊がいままでの如く特別に切符を買おうとしたら、少女駅員冷然として「兵隊さんはあとですよ」といった由。この話をきける面々、話した男を、なぜその女狐をぶんなぐらざりしと大いに怒る。余りといえば軽薄残忍の女にあらずや」(8月17日)

 と、敗戦を境に変心した少女をなじる級友の言を、そのまま記します。(彼にすれば級友への同意と少女の擁護、相半ばの心境か?)

「学生第一陣三十名余り帰京の途につくと見え、青筍寮の面々歩廊に赤き旗振りて校歌を唄い太鼓叩きて鼓舞放唱。珍しきか群衆柵に寄りて見る。改札の美少女の片頬に哀愁の翳ふかし」(10月13日)

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2018年08月27日

山田風太郎の飯田時代~「戦中派不戦日記」より その2

 山田風太郎(本名・誠也)「戦中派不戦日記」のうち、昭和20年(1945年)6月25日から10月18日までの内容について少しばかり。
 南信州・飯田の疎開時代の記述です。
(なお、日記からの引用文は青太字にて表示しています)

 ただ今回はあえて、彼の思想・真情を吐露した部分には、あまり触れないでおこうと思います。
 この日記の真髄はそこにこそあり、ボリュームも相当あるのですが、該当箇所を抜き出し、私がへたな注釈を付けても、深められるものは何もありません。

 そこらあたりに興味のある方へは、「別冊太陽 山田風太郎」に寄稿された鹿島茂「昭和の謎!慧眼なる洞察力」という一文を、お勧めしておきます。(―というより、「不戦日記」丸々一冊通して読むに如かず、ですが)

別冊太陽-山田風太郎.jpg

※「別冊太陽 山田風太郎」(平凡社 2012年8月初版第1刷)
山田風太郎の生涯と作品を俯瞰するには格好の一冊。


 山田青年が捉えた飯田風物詩―
 そんな観点から、私自身の飯田時代を重ねあわせたりもして、軽い読み物としてまとめてみたいと思います。

 昭和20年(1945年)、彼は東京医学専門学校の医学生でした。入学が人より少し遅れたため、このときすでに23歳。
 前年から東京は、たびたび米軍の空襲に晒され、学校も関連施設が爆撃に遭うなど、落ち着いて授業する状況ではなかったようです。

 6月14日、山田青年は学内で、学校ごと信州飯田に疎開するとの告示を見て、日記に「大いに驚く」と記す一方、5月の空襲で五反田の下宿を焼け出された身でもあったので、率直に「天の助けのごとく思う」とも書いています。

 17日の日記で、
「母校よ、見よ、遠く信濃の地にゆける吾らを。愛と団結鉄のごとく。切磋琢磨、全身全霊をあげて医学を研鑽し、断じて国家の期待にそむかざるべし」
 と、したためたとおり、悲壮な覚悟で25日、先発隊のひとりとして、新宿から中央線に乗り込みます。

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2018年08月21日

山田風太郎の飯田時代~「戦中派不戦日記」より その1

 山田風太郎は、私の好きな作家のひとりです。

 山田風太郎?

 ―という方がおられるかも知れませんので、ちょっと説明を。

 昭和20年代から平成の初頭にかけ、常に娯楽小説界の第一線で、一読驚嘆の物語を次々と紡ぎ出してきた異能の作家です。
 私は、かなり多くの作品を読んできましたが、まずハズレがありません。どれも面白い(―くないものも稀にありますが・・・)。

 また彼は、特定の文学ジャンルに押し込めることのできない、多岐多様の作家でもあります。
 推理作家や時代小説家というように、何かひとつの括りで収まりきる小説家ではないのです。

 「綺想の歴史ロマン作家」「列外の鬼才」「伝奇小説の巨魁」「物語の魔術師」・・・
 風太郎関連書籍では、これらの惹句で風太郎の超絶性を謳っていますが、どれをとっても「それだけじゃないんだよなあ」という不足感が否めません。

 彼の、作家としてのスタートは探偵小説でした。
 探偵小説専門誌『宝石』の懸賞募集に応募し入選した「達磨峠の事件」で、昭和22年(1947年)探偵小説文壇にデビューしたのです。
 傑作がいくつもあります。私は「太陽黒点」と「妖異金瓶梅」を推します。

妖異金瓶梅.jpg

※「妖異金瓶梅」(角川文庫版)表紙画:佐伯俊男
中国古典文学の世界で繰り広げられるミステリ連作集。通読して初めてわかる、恐るべき仕掛け・・・こんなアイデアを生みだした作者の脳髄に、ただただ驚愕するばかり。


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posted by Pendako at 09:38| Comment(0) | 郷土・ふるさと | 更新情報をチェックする
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