2020年01月20日

ふるさと再訪~いろりの里・大平宿その2

 前回の記事から2か月余りも過ぎてしまいました。
 昨年の夏の、家族旅行の話を細々と綴っておりましたが、年を明けてもいまだ旅の二日目。
 新鮮味は全く薄れ、季節感も何もありはしない話題となりましたが、まあ、マイペースで行きましょう。

大平街道
 「大平越とて嶮難の山路、往来も稀にして主従山の崖道ひとつ踏みはづさば、遥かの谷底へ転げ落つべく、所々道の崩(く)へ落ちたる所ありて難渋いふばかりなし。飯田より大平峠へ三里といへども道を行くにはかどらず。やうやう峠へ来るは七つ時なればこの先の道も覚束なくいまだ泊りには早けれども大平に宿を求めて泊まる」

 「定本 信州の街道」(郷土出版社 1991年7月刊)からの孫引きで恐縮ですが、上は江戸時代文政年間に出版された「滑稽旅賀羅寿(こっけいたびがらす)」のなかの一文。
 弥次さん喜多さんの道中記、「東海道中膝栗毛」の作者・十返舎一九(1765~1831年)が、越後や信濃を旅したときの見聞記―とのことです。

 大平街道(現・県道8号線)は、かつて伊那街道(三州街道とも)の飯田宿と中山道の妻籠宿とを、可能な限り最短の距離で結んだ道です。
 総距離約40㎞―
 人馬の通う江戸時代と、車の走行も可能な現在とでは、道幅や舗装状況は異なり、道筋も若干違っているかと思われますが、陽射しも届かぬ鬱蒼とした樹木林や、踏み外せばどこまで転げ落ちるか分らぬほど深い山あい―といった景観は、往時のまま。

信州伊奈郡之絵図.jpg

※飯田市美術博物館蔵「信州伊奈郡之絵図」(部分)
 正保年間(1644~1647年)、飯田藩主脇坂安元により作成され、幕府に提出された絵図の副本。絵を横切る太い筋が天竜川。赤い筋が街道を表しており、左下あたりに大平街道が描かれています。
昔は伊那が伊奈とも表記されていたようです。

 人の足で、これを1日で走破するのは厳しいので、中間に宿場町が作られました。これが今回の目的地、大平宿です。
 大平宿は東の飯田峠と西の大平峠に挟まれた小盆地にあります。

 伊那谷方面から上ると、街道の起点(飯田市街の知久町あたり)から飯田峠(標高1,235m、大平宿2㎞手前の最高地点)まで、距離にして約16㎞に過ぎませんが、標高差は約740mあります。(1㎞あたりの平均高低差46m)
 木曽谷方面から上ると、妻籠宿から大平峠(標高1,358m、大平宿3㎞手前の最高地点)まで、距離にして約18㎞、標高差は約950mとなります。(1㎞あたりの平均高低差53m)
 東海道随一の難所といわれた、箱根八里越えに匹敵する険しさです。
 いずれの側から上るにしても、ふたつの峠を越えなければ反対側に抜けられません。昔の人の苦労と危険はたいへんなものだったでしょう。

 それでもこの街道は必要だった―伊那谷と木曽谷とを往来するのに、旧来の道筋を辿るよりはるかに楽だったからです。

 伊那谷と木曽谷は、険峻な峰の連なる木曽山脈(中央アルプス)に隔てられています。
 伊那谷の人びとは、伊那街道を北上し塩尻あたりで中山道に出て、それを今度は南下して木曽谷に入る―木曽谷の人びとはその逆コースを辿らなければ伊那谷に出ることができませんでした。

 あるいは伊那谷から京や大坂方面に行く場合、遠州街道なり伊那街道なりを伝って太平洋側に下り、東海道に合流することになりますが、随分と遠回りな道のりです。
 木曽谷に出さえすれば、畿内に直結する中山道があるのに―です。

 そうした不便さから、おも に江戸中期以降に整備されたのが、権兵衛街道(権兵衛峠を経由して、伊那街道伊那部宿と中山道宮越(みやのこし)宿を結ぶ)であり、この大平街道でした。

 天文2年(1533年)に京都醍醐寺の者が仏事のため飯田に至った、という記録が残されていて、このときどうやら大平街道の道筋を歩いたようです。
 その後も、武田信玄が関所を置いたとか、道筋を記した絵図が作られたとかの記録があり、そこそこの往来はあったと思われます。
 ただし江戸時代の初期に至っても、「鹿道」とか「犬道」と呼ばれる未整備な山道に過ぎず、街道と呼ばれるのは、ときの飯田城主・脇坂安吉が領内の百姓を動員して改修させた、明暦元年(1655年)以降のこと―
 助郷(街道や宿場の整備、人足や馬の確保などを目的に、領主が近隣の村落に課した夫役のこと)も始まり、街道の往来が増えるに連れ、改修工事もたびたびおこなわれて、公街道としての機能を増した―とあります。
 
 この大平街道は何に利用されていたか―おもに伊那谷側の視点で見てみると。
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2019年11月12日

ふるさと再訪~いろりの里・大平宿その1

飯田市立動物園
 旅の二日目―

 早朝、宿の露天風呂に浸かって、南アルプスの眺望を満喫。
 天気が良かったので塩見岳、赤石岳、聖岳を繋ぐ山並みが、黄金色の空を背景に、くっきりと見えました。

 宿を出て、まず立ち寄ったのは飯田市立動物園―
 特に予定していなかったのですが、動物園好きの妻が目ざとく見つけ入ることに。
飯田市立動物園.jpg

 小さい頃に何度も訪れた場所です。
 当時はそれなりの賑わいがあったような気がしますが、数十年の時を経たこの日は、家族連れやカップルが数えるほどしかおらず、少し寂しい雰囲気でした。(開園早々の時間帯だったからかも)

 ニホンカモシカやハクビシンやライチョウ(ただしノルウェー産とのこと)といった信州らしい動物もいますので、これらにヤマネとかモモンガなどを加えて、山国の動物園といった特色をもっと押し出せば面白いのですが。(無理な話ですが、オコジョがいればなおのこと)

 ここにも動物慰霊碑がありました。70年近い歴史があるそうなので、ここに祀られた動物の数はいかほどか。

 飼育員の若い娘さんが、猛禽類の檻の中で、健気にモップを振るっていました。

伊賀良荘
 この日向かう大平宿では、私の妹夫婦二組と高校時代の友人が合流―私たち一家と合わせ、総勢11名が集い、二泊する予定でした。午前中はその分の食料の買出しです。

 中央高速道飯田ICの出口あたりにりんごの里という、JAみなみ信州の農産物直売所があります。
 そこに今回の大平宿宿泊体験プログラムを運営している、南信州観光公社も入っているので、まずはそこに立ち寄り、宿の鍵と、火焚き用の薪を受けとります。
 「生ごみは必ず持ち帰ってください」と念を押されました。「熊が出る」からだそうです。
 直売所では安くて新鮮な野菜と果物を調達。早生リンゴや珍しいキノコ類、そして―田舎の夏休みとくれば―スイカ、なども贖い、店を出ると思わず吉田拓郎の「夏休み」を口ずさんで、娘から「なんだそりゃ」という顔をされます。

 高速道路をくぐってすぐのところに、キラヤ伊賀良店というスーパーマーケットがあるので、ここでは肉類やおやつ、地酒などを購入。お目当ての馬刺しは予約販売のみ、ということで入手できず。

 そんなこんなで昼どきです。
 昼食はすでに手配済み―キラヤの裏手が宅地になっていて、そこに父方の叔母夫婦が住んでいるので、お邪魔することになっていました。
 ここで妹夫婦ひと組と合流。

 やはり五平餅での歓待でした。ほかにもちらしずしやサンドイッチなどが、食べきれないほど卓に並び、残ったものは差し入れとして宿に持参することに。
 おまけに「囲炉裏で焼くとうまいから」と、釣り好きの知人から分けてもらったという、十数尾のアユやアマゴを持たせてくれました。これらは伊那谷産でしょう。
 実は妹夫婦もアマゴをたくさん持って来ていたのですが、おそらくこれらは奥三河産。
 食べ比べも一興です。

 ここで寄り道、伊賀良(いがら)という地名ですが―

 飯田市のうちでも「丘の上」から松川を挟んだ南西側の一角をいい、市に併合される前は伊賀良村といいました。

 旅に出かけるちょっと前に、宮本常一「私の日本地図1 天竜川に沿って」(同友館 1967年2月初版)という本を読んだのですが、こんなことが書いてありましたので、少しだけ紹介を。
私の日本地図~天竜川に沿って.jpg

 伊賀良村も含め、それ以南の三河との国ざかいあたりまでの町村一帯は、平安・鎌倉の時代までさかのぼると、伊賀良荘(いがらのしょう)という、広大な荘園だったといいます。
 平安後期、京都の尊勝寺―白河天皇の建てた寺―が領家(領主)となり、承久の乱(1221年)の後に後堀河天皇の御領となったそうです。
 ところが山深い荘園の南半分は長いこと未開発のままで、14世紀の中頃から落人らが、山中のそこかしこに集落をなしたとあります。

 「飯田線の電車の窓から見あげる断崖の上の緩傾斜に畑をひらいて三戸、五戸の家のあるのは、大てい古い落人の村である。戦にやぶれて、平野地方からこの山中にまでのがれて来て、広い世間の人びととの交りを絶ち、静かに世をおくろうとした人たちの住みついたところである」と著者は記します。

 私も飯田線でこのあたりを通るたび、上の文中にあるような光景を見つけては不思議に思ったものですが、やはりね、という感じ。

 日本各地に落人伝説は残りますが、この地には「熊谷家伝記」という、かなり確かな文書が残されていて、落人村のありさまを詳しく知ることができるのだそうです。
 JR飯田線中井侍駅に近い、坂部という土地の郷主であった熊谷家の、代々の主が記録したものです。

 ちなみに初代の熊谷貞直は、新田義貞―挙兵して鎌倉幕府を倒すも、足利尊氏と対立して敗れた武将―の子であったとされます。

 この「熊谷家伝記」に倣ったものか、近隣の福島という地には「福島伝来記」、市原には「田辺年代記」、向方(むなかた)には「村松由来記」と・・・多くの文書が、それぞれの郷主の家に伝えられているそうです。
 それらの内容が、実に興味深いのですが、長くなりそうなので今回は端折りましょう。

 さて、昼食を終え、いよいよ大平宿に向け出発です。
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2019年11月05日

ふるさと再訪~河岸段丘の町・飯田その4

飯田大火とリンゴ並木
 飯田城址一帯の区域(追手町)を抜け、市街地に向かいます。
 市街地の南西側に、やはり段丘面の縁に沿って、こじんまりした飯田市立動物園があります。入園無料。(翌日に家族と入場しました)

 動物園の入り口あたりから北東方向に、並木通りが伸びています。ここから約400mに亘って続くのが、有名なリンゴ並木です。
りんご並木.jpg
  
 幅広の道の中央分離帯に、幾種類ものリンゴの木が植えられています。
 中央分離帯というより、細長い公園です。様々なモニュメントやオブジェが据えられ、その脇をプロムナードが抜けていきます。
 どの木にも青々としたリンゴの実が成っていました。若干赤く色づいたものもあります。
 ほのかにリンゴの香りが漂い、清新な気持ちにさせてくれます。

 このリンゴ並木ですが・・・

 昭和22年(1947年)4月20日、桜も花開いた穏やかな春の日、突如として飯田の町を大参事が見舞いました。
 「飯田大火」と呼ばれる大火災です。

 民家の煙突から出た火の粉が原因と言われていますが、好天続きで空気は乾燥、平均風速10mの南風にも煽られて、旧市内南部の一角から上がった火の手はたちまち東西に広がって、北側を横切る飯田線の沿線あたりまで達したようです。
 まるで市街地全体を、包み込むようにして延焼したのです。

 この「飯田大火」は、それこそ当事者も含め何万人もの市民が居合わせ、目撃したわけですが、私の母親もそのひとりでした。

 母の生家―つまり先ほど訪問した従兄弟の家―は、市街地とは飯田線で隔てた外側の、やや高台にあります。
 飯田の町並みを、小高い位置から一望できるわけです。

 この日の様子を順序立てて聞いたわけではありませんが、折につけ母は、断片的に当時のことを話してくれることがあり、それらをつなげるとこんな具合―

 勤務が非番で、家で昼食の支度を手伝っているとき、まず誰かが焦げ臭い匂いに気づいた。
 半鐘が鳴り始めたので、市街地のほうを眺めると、屋根の連なる遥か向こうに煙が見え、それが短時間のうちに左右に広がっていった。
 そのうち治まるだろうと思っていたが、たまに町の様子を窺うと鎮火の気配はまるでなく、町中から白煙黒煙が、渦を巻いて立ち昇るような景色になっていた。
 近所の住民が、何やら大声を掛けあっていた。
 消防団が家々を回り、町の様子を伝えながら助勢を募っていた。
 目の前の東中学校の校庭に、人々が避難してきた。
 その人たちを追いかけるように、火の手がどんどん母の家のほうに迫って来た。
 誰かが「飯田線があるから火は回って来ん」と言ったので、避難はしなかった。準備はしたかも知れない。
 母がもっぱら考えていたのは、(市街地の真ん中にある)自分の職場の様子や、勤務中の同僚たちの安否だった。
 夕暮れどきになると、「手の届くようなところで」煙と炎が一緒くたになり、そこからもの凄い勢いで火の粉が舞い上がるのが見えて、さすがに「こりゃうちも危ない」と思った。
 夜中になると火の勢いは衰えた。
 なにがなんだか分らない一日だった。翌日のことは覚えていない。

 やはり飯田線の手前で延焼は止ったそうですが、家の近くの桜町駅は全焼したとのこと。

 この飯田大火の罹災面積は60万㎡―当時の市街地の約8割に上ったといいます。
 罹災戸数3,577戸、罹災世帯数4,010世帯、罹災人数1万7,771人、死者1人、行方不明者2人、重傷者80人、損害額15億円(当時の金額)・・・
 これほど大規模な延焼となったのは、防火・消火設備の不足と初期消火の不良にあったとされます。(一例を挙げると、消火栓の数が少ないうえ、火元の近くも遠くも一斉にそれらを開いたため水圧が下がり、消火に必要な放水ができなかった―など)
 
 江戸時代から続き、戦災も免れた由緒ある「信州の小京都」は、終戦後2年の陽春、一昼夜にして焼け野原となったのです。
 人的被害は最小限にとどまったものの、旧市内の大半の市民は、裸一貫での復興を余儀なくされることになりました。

 大火の教訓を元に、新しい街づくりが始まります。
 町割りを碁盤目状に配したり、「裏界線」と呼ばれる幅2mの避難路を整備したり・・・
 ふたつの防火帯道路を、市街地の中央で十字に交差させ、全体を四つの区域に仕切ったのもそうです。どこで火災が起こって延焼しようとも、区域内で食い止めようという発想。
 その幅広の防火帯道路のひとつが、後に並木通りと呼ばれるようになります。

 大火から数年後、飯田市立東中学校の生徒たちから、防火帯道路にリンゴ並木を植えることが発案されました。
 東中学校の校舎は延焼を免れたものの、生徒のうち400名余りが罹災し、家を失った多くの罹災者を収容したこともある―そうした記憶がこの発案につながったのかも知れません。

 まだ食糧難の時代です。当初は「リンゴの実が成っても盗まれるに決まっている」との反対意見もあったそうですが、「リンゴの実を大切に育てる、美しい心をもった人々の住む町をめざす」という信念で実現したプロジェクトー昭和28年(1953年)、東中学の全校生徒が参加して、リンゴの成木47本が、通りの中央分離帯に植樹されました。

 収穫初年度(昭和30年)―
 手入れに不慣れなこともあったのでしょう、途中で枯れた木も多く、初夏に結実が確認できたのは47個。
 夏から初秋にかけ落ちた実もあり、生徒の願い空しく実を盗む輩などもいて、秋に収穫できたのはたった5個だったと言います。

 ところがこの、生徒の願いと盗難という現実が新聞などで報道されると、県の内外から支援の申し出や激励が次々と寄せられ、これらに力を得て、翌年から収穫は飛躍的に伸び、盗難件数も減るようになったそうです。

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2019年10月26日

ふるさと再訪~河岸段丘の町・飯田その3

飯田ゆかりの文人たち
IMG_3052.jpg

 これも宿のすぐ近くにある、日夏耿之介記念館(写真中央)と、柳田國男館(写真左)。これらの右手のほうには、飯田市美術博物館もあります。
 残念ながら今回は、いずれも中を覗けませんでした。

 日夏耿之介(1890年~1971年)は、飯田市出身の文学者。神秘主義的な象徴派詩人であり、大正期の幻想文学興隆に寄与した英文学者―とくれば、私の嗜好に引っかかる作品があるはずですが・・・
 飯田出身というのは早くから知っていて、同郷のよしみとばかりに、父親の持っていた日本文学全集で、その作品に当たってみたことがあります。
 しかし中学生の読解力では、その高尚で韜晦的な雅文体には、とても歯が立ちませんでした。
 そんな苦い思い出があります。

 柳田國男(1875年~1962年)は、言わずと知れた日本民俗学の創始者にして開拓者です。
 現・兵庫県神崎郡福崎町に、松岡家の六男として生まれましたが、二十代半ばに旧・飯田藩士であった柳田直平の養嗣子となって柳田姓となり、その後に柳田家の娘を妻に迎えたことから、飯田との関わりができたようです。
 私はそんなに柳田國男の著作を読んでいるわけではありませんが、「海上の道」や「遠野物語」などは、いつか読み返してみたいですね。

 飯田市美術博物館は、明治時代に活躍した飯田出身の日本画家・菱田春草(1874年~1911年)の作品を多く収蔵しています。
 もともとこの敷地は飯田長姫高校(現・飯田OIDE長姫高校)があった所で、私の親戚には幾人もこの学校の卒業生がいます。小さい頃、この高校の文化祭に連れていかれ、温かいぜんざいを食べたことなど、うっすらと覚えています。
菱田春草「菊慈童」.jpg

 上は、中国・周の時代の故事で、菊の霊力により不老不死を得た童子を画題にした、菱田春草25歳のときの作品「菊慈童」(飯田市立美術博物館蔵)。
 輪郭線を用いない「朦朧体」の典型―とのこと。
 
 飯田出身の有名人といえば、江戸時代中期の儒学者・太宰春台(1680年~1747年)もいますね。父親が飯田藩士でした。長野県歌「信濃の国」の歌詞に登場します。
 江戸時代前期に起こった経世論―政治とはつまるところ経世済民(世を経め、民を済う=よをおさめ、たみをすくう)のことだ、という思想―を深め、経世済民をつづめた「経済」の語を創出した人です。(春台の説く「経済」は、economyの訳語にあてられた「経済」よりも、政治学や社会学などに及ぶ広範な概念のようです)

飯田城の遺構
 市街地に向けてまっすぐ伸びる表通りを辿りかけ、気まぐれに横道に逸れてみました。
河岸段丘の町.jpg

 いくつもの階段を伝って段丘崖を下ることになりましたが、この急勾配の通路は、上に城郭があった時代の名残でしょうか。

 車道に出たのでそれを伝って上ると、元の表通りに出ます。
 その途中の石垣の上に見えてくるのが樹齢400年、飯田城桜丸御殿址のヒガンザクラ。
夫婦桜.jpg
 
 ヒガンザクラとありますが、実はエドヒガンと枝垂桜とが合体して、一本の樹木に見えるのだそうです。「夫婦桜」という直截な呼び名が付いています。

 同じ敷地内にあるのが、飯田城の数少ない遺構のひとつ、桜丸御門―通称赤門です。
IMG_3080.jpg

 道筋からはやや奥まった、合同庁舎と市立図書館に挟まれた位置に建っているので、表通りをそのまま歩いていれば、見過ごしたかも知れません。
 建築当時と同じ場所に遺されているとのこと。

追手町小学校
 桜丸御門の、表通りを挟んだ向かい側に目をやると―
飯田市立追手町小学校.jpg

 明治5年(1872年)、旧・飯田藩の文武所を改修して開校されたのが現・飯田市立追手町小学校。
 昭和4年に落成した鉄筋コンクリート建ての校舎(写真上左右)と、昭和6年に落成した講堂兼体操場(写真右下)は、現在も使用中ですが、いずれも登録有形文化財となっているとのこと。(このときは補修工事中で、特徴のある丸みを帯びた外観は見られませんでした)

 小学校の百葉箱の標識に、標高488mとあります。思ったよりも高地にあるわけではないなと、少し意外でした。

 ちなみに日本でいちばん標高の高い市(市役所のある地点)は、同じ長野県の茅野市で、801mとのこと。八ヶ岳の麓です。
 茅野には今年の正月に立ち寄る機会があり、そのとき知った豆知識。
 蓼科にスキーに行ったついででしたが、諏訪大社に初詣し、尖石縄文考古館で「縄文のビーナス」と「仮面の女神」を見てきました。

 ついでながら翌日向かうことになる大平宿の標高は1,150m。

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2019年10月24日

ふるさと再訪~河岸段丘の町・飯田その2

環状交差点
 大宮諏訪神社前で県道を右に折れ、並木通りを南下していると、思いがけず環状交差点(ラウンドアバウト)に出くわしました。
 ドーナツ状の交差点で、ここからいく筋もの道が放射状に伸びています。交差点に進入した車は右回りに徐行しながら、任意の方向に抜け出す仕組みで、信号機がありません。

 あとで調べてみると、全国でまだ90ヶ所ほどしか設置されていないそうで、珍しいと言えば珍しい。
 飯田にはこの吾妻町環状交差点から300m西側にもうひとつ、東和町環状交差点があるようです。

 Googleマップ 飯田市の環状交差点

 私の住む横浜にも、まだ二、三か所しかないはず。
 先日久しぶりにそのあたりを歩いていて気づいたのですが、ひとつは新横浜の横浜アリーナ裏手にあります。いつの間にできたのか?
 飯田では写真を撮る間もなかったので、代替として新横浜の画像を貼りつけておきます。
環状交差点(新横浜).jpg

 飯田市のホームページを覗くと、市では将来的な普及を前提に、環状交差点の有用性を検証する「社会実験」に取り組んでいるようです。

宿からの展望
 そこから7、8分で宿に到着。この頃には上空がどんより曇って、いまにも降り出しそうな気配でした。

 宿はちょうど旧市内の三角形の、天竜川方向の突端にあって、部屋からは段丘崖の下に広がる景色を、まさしく睥睨するかのように眺められました。
 江戸時代には、ここに飯田城―別名長姫(おさひめ)城が築かれていました。殿さまはこの城から、文字通り城下の様子に睨みを利かせていたのでしょう。

 部屋を案内してくれた仲居さんが、窓外の景色を説明してくれました。曇っていたのでよく分らなかったですが・・・
 リニア中央新幹線の駅ができるのはあのへん―と指差してくれたのは、北東方向の段丘崖の麓。
 飯田線の伊那上郷駅と元善光寺駅の中間あたりで、2027年の開通までにはそこに飯田線の新駅ができて、新幹線駅と連絡するのだとか。
 地元の期待は、だいぶ大きいようです。

 伊那上郷の名前が出たついでに、おもしろい話をしてくれました。
 飯田線は、おおむね天竜川の流れと並行して伊那谷を縦貫しているのですが、伊那上郷~桜町~飯田~切石~鼎~下山村といった区間だけは流域を離れ、西の山側にせり出すように大きく迂回しています。
 仲居さんの持ちネタなのか、流暢に語ってくれたのはこんな話。

 あるとき、下山村駅でどうしても乗らなければならない下り列車に乗り遅れた人がいて、大いに焦ったものの、その人は意を決して駈け出すや、そこから伊那上郷駅までの最短距離の道を走り抜け、さきほど乗車する予定だった列車に乗り込んだ・・・
 列車を追い越して先回りしたわけです。
 その後、この試みにチャレンジする人が何人も出ているとか。
 
 ほんまかいな?

 ―と、そのときは思いましたが、後でGoogle Mapで調べてみたら下山村駅から伊那上郷駅までの列車所要時間は15分、徒歩ならば最短距離の道(2.1㎞)を25分と出ました。
 若い人ならば、この道のりを15分以内で駈け抜けるのは、楽勝でしょうね。

河岸段丘の町・飯田.jpg

※旧市内から見下ろす景色(飯田市に併合前は、上郷村、松尾村だったあたり)

 上の写真は、上段の旧市内から眺めた、下段の段丘面に広がる町並みです。
 その向こうはさらに低くなり、天竜川の河床は隠れて見えません。
 ついでに言うと、霞がかった遠方の景色は、一番手前が対岸の段丘、その奥に伊那山地、いちばん奥が赤石山脈。
 伊那山地と赤石山脈の間には、世界有数の大断層、中央構造線が走っています。

 部屋でゆっくりくつろぐ家族を尻目に、私はひとり付近の散策に出かけました。

長姫神社
 宿の敷地に隣接して、小さな神社があります。廃藩置県により飯田藩が廃され、飯田城が取り壊された跡地に創建された長姫神社です。飯田藩ゆかりの堀家三代の当主を祀っているとのこと。
長姫神社.jpg

※この写真は翌日の朝に撮ったもの。どんなに小さな神社でも、それぞれに謂れがあるものです。

 鳥居の脇にある手水鉢には、地下から湧き出た(汲み上げた)温泉が注がれています。少しぬるめの浄水です。
 隣が源泉を有する温泉旅館なので、そこからのお裾分けかも知れません。

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