2020年06月02日

ふるさと再訪~私の下條物語

 大平宿に2泊3日した中日、麓に降りて下條村のほうへ出かけました。
 木曽谷側に下って、妻籠あたりを散策するという選択肢もあったのですが、しばらくご無沙汰していた村の様子を見ておきたかったのです。

 朝ゆっくりの出発、大平街道を下って飯田市街地の手前から県道・国道いくつか乗り継ぐこと約1時間、下條温泉郷に出ます。
 日帰り温泉「コスモスの湯」で、まずは露天風呂に浸かりました。
コスモスの湯.jpg

 高台にある施設なので、眺望は抜群です。眼下に天竜川と伊那谷、彼方には南アルプスの峰々―
 以前、何回か来たことがあるのですが、たいていは夜だったので、今回初めて碧天下の景色を楽しめました。
 
 お風呂のあとは併設のお食事処で昼食。ウリは五平餅と蕎麦なので、両方を組み合わせた定食を注文しました。
 やはり胡桃味噌のタレはうまい。

 ここから国道151号線を南下すること約10分、谷間に懸る大橋を渡ると、陽皐(ひさわ)という交差点に差しかかります。
 そのあたりが、かつてこの地を支配していた豪族・下条氏の居城、吉岡城があった場所です。
 次の写真は、交差点を右(西側)に折れ、さらに北側に分岐する道から写したもの。
 右奥の森が、吉岡城の本郭のあったところです。
吉岡城址.jpg

 祖父母の家は、その分岐から150mほど下ったところにありました。建物自体は今も残っています。
 誰も住まなくなった後も、父が年に何回も訪れ、古家の手入れや修繕などしていたのですが、亡くなる2、3年前、僅かばかりの田畑とともに地元の知り合いに譲ったようです。

 どういうわけか、上の写真の手前あたりの土地だけは残したようで、いまは私の名義になっています。
 50年ほど前までは桑畑でした。近所の子どもたちと、鬼ごっこやチャンバラごっこした場所でもあります。そうした思い出だけは残っているのですが・・・

 母が説明するに、父が子どものころ、ここから宝物が出てくる夢を見たからだそうで。
 まこと夢のある話ではありますが、日当りの悪い傾斜地で、資産価値皆無なのでほったらかし―
 ただ、ここで梅の栽培をしてもらっている方がいて、毎年「年貢」を納めてくれるので、「地主」としてその様子を今回確認してきました。

 吉岡城址とは反対方向を向くと、次の写真のような景色。木立に隠れているのが父の生家―祖父母の家だったところです。今の持ち主が、物置や作業場に使用しているようです。
 このあたり初夏の夕べには、ホタルの群舞が見られました。団扇で軽くはたくと数匹のホタルが落ちます。それを何十匹と虫かごに入れ、寝床で不思議な光の点滅を眺めながら、眠りについたものです。
 現在はどうなのでしょう。
下條村陽皐.jpg
 
 中央奥の、こんもりとした山。
 この山の上に、大山田神社という式内社(しきないしゃ)があります。

 式内社とは、延喜式内社の略です。
 「延喜式」は平安時代中期に編纂された、律令の施行細則です。そこには、当時全国にあった神社一覧もまとめられています。
 この「延喜式神名帳」に記載のあった神社2,861社を、式内社と呼ぶのです。
 したがって現存する式内社は、創建から少なくとも1,100年近くは存続する、由緒ある神社ということになります。(ただし、神名帳記載の式内社と、現在式内社とされる神社の、継続性・同一性を証明するのは難しいので、ほとんどが「式内社と比定される」という表現が使われるようですが)

 大山田神社は、信濃国にあった式内社46社(内、伊那郡に2社)のうちのひとつです。実際の創建は、奈良末期か平安初期と推定されるそうですが、これも確かな証拠があるわけではありません。
 また最初の鎮座地は別にあり、ある時代にこの地へ引っ越してきた、ともいわれています。

 私はこの境内の雰囲気が好きで、下條に来るたび、幼いころは祖母に連れられて、年長になるとひとり散歩がてら、この神社を訪れたものです。
 下の鳥居をくぐり、鬱蒼とした森の中、160段ほどの石段を上ります。杉の木立の合間から、武者姿の亡霊が彷徨いでてきそうな気配が、なきにしもあらず。
 上りきってまず目に入るのが、杉の大木。樹齢800年を超えるそうです。
大山田神社.jpg

 ※大山田神社の大杉と社殿(Wikipediaのフリー画像を拝借)

 大杉と引き比べ、ミニチュアのようにこじんまりとした覆屋があり、中に三つの社殿が並んでいます。
 中央本殿の祭神は大国主命、左右の相殿の祭神は、応神天皇と源為朝。
 大国主命は出雲系神話の神様で、「国土創生」と「国譲り」の主人公。応神天皇は第15代天皇で、祭神としては「八幡様」として広く親しまれています。どちらも全国区の神様。

 よくわからないのが源為朝です。
 源頼朝・義経兄弟の叔父にあたる平安末期の武将―その事跡や伝説を知れば、祭神として祀られる資格は十分に有する人物でしょう。実際、ゆかりある地のいくつかに、為朝神社があるようです。
 でも、この下條村とはどんな関係が?

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ラベル:伊那谷 信州
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2020年05月04日

ふるさと再訪~いろりの里・大平宿その5

大平宿散策
 大平宿初日(旅の二日目)は、到着してすぐに夕餉の支度などに取りかかったので、宿場内をゆっくり見学する余裕がありませんでしたが、翌朝散歩がてら見て回りましたので、そのときの写真を何枚か貼りつけて、簡単なコメントを添えます。

 大平宿は大平街道に沿った南北約500mの細長い区域です。
 まずは前回写真を掲げた憲章板より南の区域。

大平宿~水路.jpg

 道沿いに細い水路が流れています。飲料には不向きですが、かつては洗濯や足洗の水として使われたのでしょう。

大平宿~下紙屋.jpg

 大平憲章板の50mほど南にあるのが、今回の私どもの宿・下紙屋。

大平宿~下紙屋由来.jpg

 下紙屋の由緒書き。旧家屋は平成12年8月に全焼したとありますが、出火原因は何だったんでしょうか?
 それを考えると、火の始末はゆめ疎かにはすまじ、です。

大平宿~深見荘.jpg

 下紙屋の向いに建つこれら(深見荘と蔵)も、全焼して建て直されたものです。

大平宿~オオハンゴウソウ.jpg

 至るところにオオハンゴウソウの群生。
 もっともこの植物は、明治期以降に移植された外来種とのこと。

大平宿~マルハナバチ.jpg

 アカツメクサの蜜を吸うマルハナバチ。

大平宿~コガネムシ.jpg

 コガネムシ、恋の季節。

大平宿~大蔵屋.jpg

 下紙屋の二軒お隣、大蔵屋。かなり年季の入った佇まいです。ここにも20名ほど泊まれるようです。

大平宿~公衆トイレ.jpg

 これは何かというと、公衆トイレ。宿場内には数ヶ所に公衆トイレがあります。

大平宿~南部の町並み.jpg

 大蔵屋から南方向の並び。さらに奥のほうに行けば宿場入口があり、石塔が立っていて、神社がある―のですが、迂闊にもそのあたりにまで足を伸ばしませんでした。
 あとで友人のW君に教えてもらったのですが、大平宿が山田洋次監督「隠し剣 鬼の爪」(2004年松竹)のロケ地となっていて、最終の決闘シーンはどうも宿場入口近辺で撮られたようです。
 私は藤沢周平原作による山田監督の時代劇三部作のうち、「たそがれ清兵衛」(2002年)と「武士の一分」(2006年)は封切り時に観ているのですが、どういう訳かこの2作目だけは未見。
 機会があれば観てみよう。見覚えのある風景が映っているかも知れません。

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ラベル:伊那谷 信州
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2020年05月03日

ふるさと再訪~いろりの里・大平宿その4

大平宿の成り立ちと終焉
 大平宿は木曽山脈(中央アルプス)のほぼ南端、東西ふたつの峠―飯田峠と大平峠(別名木曽峠)に挟まれた小盆地にあります。
 この近辺からは先史時代の遺物(石器、縄文土器、須恵器など)が出土するなど、古くから人々が暮らしていた痕跡が残ります。
 室町時代には木地屋が三戸あった、との記録もあるそうです。
 木地屋というのは、木材を加工して日用器物や漆器の素地をつくるのを生業とする職人集団で、良質の木材を求めて各地を漂泊するのが常だったようですが、安定的に良材の得られる大平に定住した一団があったのでしょう。

 江戸時代明暦元年(1655年)、飯田城主・脇坂安吉が大坂加番を命じられたのをきっかけに、未整備な山道が大改修され、大平街道という公道が拓かれた―という話は前々回でも触れました。

 その100年後―
 飯田の木地師・大蔵五平次と穀屋・山田屋新七が飯田藩の許可を得て大平に入り、木曽からの入植者5家族とともに開墾を始めたのが、宝暦4年(1754年)のことです。
 藩の資金で上水路が引かれ、やがて紙屋・かめや・板屋の三問屋が設立されるなど、大平は飯田~妻籠間の中継的宿場町として徐々に整備され、戸数や人口も増え始めます。
 これにより大平街道は、藩主通行の道、助郷人馬の道という公的な機能に加え、物流の道、講の道として庶民の通行に供する役割をも担うようになったのです。

 五平次・新七の入植からさらに100年後―
 安政3年(1856年)に宿場町としては最盛期を迎え、全28戸、人口180人を数えます。元治元年(1864年)の記録では、宿場の一日の最大通過人数は、助郷だけで1,200人、馬100疋を数えたといいます。

 明治維新を迎え、廃藩置県によって飯田藩が管轄していた大平街道は、飯田県(のちに筑摩県を経て長野県)の所管となりました。
 学制改革や郵便制度施行は大平宿にも及びます。明治6年(1873年)に小学校、明治29年(1896年)に郵便局が設置されました。
 この小学校が、飯田・丸山小学校の分校に編入された明治36年(1903年)頃には、生徒数は90名を超えたといいます。
大平宿~小学校跡.jpg

 ※今も残る大平小学校の校舎。校門の門柱も当時のまま。手前の建物は教員官舎。

 明治37年、大平街道は県道として全面改修され、街道としての全盛期を迎えます。大正10年の記録では、大平宿の戸数75、入馬50疋、出馬50疋、運送馬車35台が往来して、その賑わいは飯田町に匹敵したとも。大正9年(1920年)には定期バスの運行が始まっています。
 しかしながらこの間に、木曽谷には中央西線、伊那谷には伊那電鉄という鉄道が開通し、大平街道の実用の道としての役割は薄れ、やがて終焉を迎えることになるのです。

 昭和35年(1960年)、大平の戸数は全盛期の約半数(38戸)に減り、街道の通行量も往時の面影を留めないほどの衰退ぶりでした。
 住民は薪炭業で生計を維持するものの、石炭石油などの化石燃料の普及により木炭の需要は下落の一途。
 ついに昭和45年(1970年)、集落の総意として集団移住の申請を提出し、その年の11月に全住民が離村します。
 ここに大平宿200有余年の歴史は幕を閉じました。

 しかし廃村となった大平宿に、多くの民家がそっくり残されました。
 ほどなくしてある企業が、この近辺の別荘地開発に着手しました。すると乱開発を危惧した有志が集まり、大平の自然保護、大平宿保存の動きが活発になったようです。
 昭和57年(1982年)に大平保存再生協議会が発足し、大平憲章が制定されました。
 憲章には「自然保護と歴史環境保全を保存の二つの柱とし、誰もが自然の中で古民家に生活して生活の原体験を学び、歴史的遺産にふれて考え、登山やスキーなどスポーツを楽しむという教育・観光・スポーツをむすびレクリエーション地域として、その再生を位置づける」とあり、この趣旨に沿って今回の体験プログラムが組まれている―というわけです。
 こうして歴史ある大平宿の佇まいは、いにしえの暮らしぶりと美しい景観とをいまに伝えてくれるのです。
大平憲章板と斉藤茂吉歌碑.jpg

 大平宿のほぼ中央に立つのが、大平憲章板。江戸時代の立て看板を模したような作りです。

 ついでながらし左側の石碑は斎藤茂吉の歌碑。
「雲さむき 天の涯に はつかなる 萌黄空あり そのなかの山」
と刻まれています。
 斎藤茂吉はアララギ派の中心的歌人。その茂吉が昭和11年(1936年)、飯田で催されたアララギ会に出席するため、木曽の三留野から大平を越えて飯田へ向かったそうです。
 そのときの旅を詠んで、「大平宿」と題した17首の短歌が残されていますが、上はそのひとつ。
 面白いのは、木曽側の大平街道のとっかかりあたりに、蘭という集落があります。「蘭」は「あららぎ」と読むのです。
 茂吉は何かしらの縁を感じたのでしょう。
 大平峠には、
「麓には あららぎといふ 村ありて 吾にかなしき 名をぞとどむる」
の歌碑もあるそうです。

 ちなみに大平宿を訪れた文人に、島崎藤村や吉川英治の名も見えます。
 吉川英治には、一部の映画通に有名な「恋山彦」という長篇小説があります。この小説の舞台(のひとつ)が大平近辺の山中なのです。おそらく大平宿を訪れた経験を踏まえたものでしょう。
 いずれ「恋山彦」を、「120字の読物世界」のほうで取り上げてみたいと思います。「一部の映画通に有名な」の種明かしもそのときに。

 次回で、大平宿泊記は終わりにしたいと思います。(まだ次回があるんか?との声も聞こえますが)
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2020年04月20日

ふるさと再訪~いろりの里・大平宿その3

大平宿
 大平宿体験宿泊は、南信州観光公社( https://www.mstb.jp/ )が主催する体験プログラムのひとつ。
大平宿案内リーフレット.gif

※観光案内用リーフレットより


 大平宿は「集団移住集落の再生と保存を目的とした、旧民家の体験的利用による保存活動」―つまり「宿泊をすることで古民家を守る」というコンセプトのもとで運営される、おそらく日本で唯一無二の宿泊施設です。
 人の住まぬ家は朽ちるのが早いと言いますが、ここでは定住者は居らずとも宿泊客が頻繁に利用することで建物や周囲の景観の延命を図る―といった発想なのでしょう。

 利用者にとっては、江戸時代に拓かれた宿場町・大平宿の古民家に寝泊まりし、かまどや囲炉裏での食事作りや、風呂焚きなどの体験を通して、往時の暮らしぶりを偲ぶことができる―そこに堪らない魅力があります。

 感じとしてはキャンプ場のバンガローに宿泊するのに近いのですが、自然を満喫するだけでなく、往古の歴史や習俗を実体験できる場所でもあります。
 ただし管理人などは常駐していませんので、入る前には準備万端整え、入ってからはすべて自己責任となります。
 また利用はふたり以上で、ひとりだけの宿泊は認められていません。外界との通信手段が限られているため、ひとりでは不慮の事故や急な疾病に見舞われたとき、救援を頼む手立てがないからです。
 火元の管理についてはもちろんですが、ゴミの持ち帰りについても厳しい規則があります。景観の維持というだけでなく、熊や猪など野生動物の跋扈を回避するためでもあります。
 こうした制約が煩わしい、すべて自力で賄うのはハードルが高い、と思う方には不向きな場所かも知れません。

 それでも大平宿に泊まってみたいという人には、宿場内に丸三荘という民宿があり、こちらを利用するという手もあります。近くを流れる黒川では渓流釣りが楽しめるそうで、釣り人たちがこの旅籠をよく利用するようです。

大平宿概観図.gif

※大平宿の俯瞰図


いろりの里
 さて、私たちが大平宿に到着したのが午後2時半ごろ。
 駐車場には、すでに何台かの車が止まっていました。立ち寄って見学するだけの観光客もいるようです。
 私たちが車から荷を降ろしていると、三十代くらいの男性が「ここは泊まることもできるんですか?」と驚いたように聞いてきました。奥さんとふたりの娘さんの家族連れです。
 10人くらいで2泊の予定ですと答えると、「私ども飯田に住んでいて何回かここは通ったことがありますけど、宿泊できるとは知りませんでした」
 地元の人でもその程度の認識かなと、私のほうこそちょっと驚きました。この先に大平峠県民の森があり、そこのキャンプ場は飯田市民にもよく知られているそうです。予約不要で無料とのこと。
 焼肉好きの飯田市民にとっては、囲炉裏端でじっくり川魚を焙るより、野外で豪快にバーベキューを、といったところでしょうか。
「どちらから?」「横浜からです」「遠路はるばるようこそ!」「いえ実は私、飯田の生まれでして。今回初めて、家族引き連れての里帰りです」「ああそれでは、お帰りなさい!」
 気の好いお父さんとそんなやりとりを交わしているあいだ、奥さんはニコニコしながら、ふたりの娘さんは所在無げにこちらを眺めていました。

 持参したカートと、備え付けの手押し車2台に荷物を積み込んで、一行(私の家族5人と妹の家族3人)は駐車場から300mほど離れた泊り宿「下紙屋」に向かいます。(車の乗り入れはできません)
いろりの里大平宿.jpg
 
※駐車場の案内板

 
 荷物は持参した寝袋(宿に寝具はありません―実はありましたが、使わないのがマナー)、買い出しした食料や飲料、観光公社で用意してもらった薪6束(要予約)・・・など嵩張るものが多く、一度では搬入しきれませんでした。
下紙屋の佇まい.jpg

※下紙屋


 下紙屋の外観で特徴的なのは、軒がせがい造りになっていること。ここだけでなく大平宿の民家の多くがせがい造りになっています。
 上の写真でお分かりのように、二階部分が道側に大きく競り出している―かに見えます。実は平屋建てなのですが、せがいがあるため二階建てに見えます。これを「疑似二階せがい」というそうです。(もちろん二階建ての家屋で、二階部分が張り出した真性のせがい造りもあります)
 「せがい」は「船枻」と書きます。和船の、足場として両側の舷(げん)に渡した板を船枻といい、これに似た構造であることに因んだ名称とのこと。
 大平宿に限らず、宿場町にはよくこのせがい造りの家が並んでいたようです。にわか雨に旅人が駆け込んで、雨宿りでもしたのでしょうか。

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2020年01月20日

ふるさと再訪~いろりの里・大平宿その2

 前回の記事から2か月余りも過ぎてしまいました。
 昨年の夏の、家族旅行の話を細々と綴っておりましたが、年を明けてもいまだ旅の二日目。
 新鮮味は全く薄れ、季節感も何もありはしない話題となりましたが、まあ、マイペースで行きましょう。

大平街道
 「大平越とて嶮難の山路、往来も稀にして主従山の崖道ひとつ踏みはづさば、遥かの谷底へ転げ落つべく、所々道の崩(く)へ落ちたる所ありて難渋いふばかりなし。飯田より大平峠へ三里といへども道を行くにはかどらず。やうやう峠へ来るは七つ時なればこの先の道も覚束なくいまだ泊りには早けれども大平に宿を求めて泊まる」

 「定本 信州の街道」(郷土出版社 1991年7月刊)からの孫引きで恐縮ですが、上は江戸時代文政年間に出版された「滑稽旅賀羅寿(こっけいたびがらす)」のなかの一文。
 弥次さん喜多さんの道中記、「東海道中膝栗毛」の作者・十返舎一九(1765~1831年)が、越後や信濃を旅したときの見聞記―とのことです。

 大平街道(現・県道8号線)は、かつて伊那街道(三州街道とも)の飯田宿と中山道の妻籠宿とを、可能な限り最短の距離で結んだ道です。
 総距離約40㎞―
 人馬の通う江戸時代と、車の走行も可能な現在とでは、道幅や舗装状況は異なり、道筋も若干違っているかと思われますが、陽射しも届かぬ鬱蒼とした樹木林や、踏み外せばどこまで転げ落ちるか分らぬほど深い山あい―といった景観は、往時のまま。

信州伊奈郡之絵図.jpg

※飯田市美術博物館蔵「信州伊奈郡之絵図」(部分)
 正保年間(1644~1647年)、飯田藩主脇坂安元により作成され、幕府に提出された絵図の副本。絵を横切る太い筋が天竜川。赤い筋が街道を表しており、左下あたりに大平街道が描かれています。
昔は伊那が伊奈とも表記されていたようです。

 人の足で、これを1日で走破するのは厳しいので、中間に宿場町が作られました。これが今回の目的地、大平宿です。
 大平宿は東の飯田峠と西の大平峠に挟まれた小盆地にあります。

 伊那谷方面から上ると、街道の起点(飯田市街の知久町あたり)から飯田峠(標高1,235m、大平宿2㎞手前の最高地点)まで、距離にして約16㎞に過ぎませんが、標高差は約740mあります。(1㎞あたりの平均高低差46m)
 木曽谷方面から上ると、妻籠宿から大平峠(標高1,358m、大平宿3㎞手前の最高地点)まで、距離にして約18㎞、標高差は約950mとなります。(1㎞あたりの平均高低差53m)
 東海道随一の難所といわれた、箱根八里越えに匹敵する険しさです。
 いずれの側から上るにしても、ふたつの峠を越えなければ反対側に抜けられません。昔の人の苦労と危険はたいへんなものだったでしょう。

 それでもこの街道は必要だった―伊那谷と木曽谷とを往来するのに、旧来の道筋を辿るよりはるかに楽だったからです。

 伊那谷と木曽谷は、険峻な峰の連なる木曽山脈(中央アルプス)に隔てられています。
 伊那谷の人びとは、伊那街道を北上し塩尻あたりで中山道に出て、それを今度は南下して木曽谷に入る―木曽谷の人びとはその逆コースを辿らなければ伊那谷に出ることができませんでした。

 あるいは伊那谷から京や大坂方面に行く場合、遠州街道なり伊那街道なりを伝って太平洋側に下り、東海道に合流することになりますが、随分と遠回りな道のりです。
 木曽谷に出さえすれば、畿内に直結する中山道があるのに―です。

 そうした不便さから、おも に江戸中期以降に整備されたのが、権兵衛街道(権兵衛峠を経由して、伊那街道伊那部宿と中山道宮越(みやのこし)宿を結ぶ)であり、この大平街道でした。

 天文2年(1533年)に京都醍醐寺の者が仏事のため飯田に至った、という記録が残されていて、このときどうやら大平街道の道筋を歩いたようです。
 その後も、武田信玄が関所を置いたとか、道筋を記した絵図が作られたとかの記録があり、そこそこの往来はあったと思われます。
 ただし江戸時代の初期に至っても、「鹿道」とか「犬道」と呼ばれる未整備な山道に過ぎず、街道と呼ばれるのは、ときの飯田城主・脇坂安吉が領内の百姓を動員して改修させた、明暦元年(1655年)以降のこと―
 助郷(街道や宿場の整備、人足や馬の確保などを目的に、領主が近隣の村落に課した夫役のこと)も始まり、街道の往来が増えるに連れ、改修工事もたびたびおこなわれて、公街道としての機能を増した―とあります。
 
 この大平街道は何に利用されていたか―おもに伊那谷側の視点で見てみると。
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posted by Pendako at 23:51| Comment(0) | 郷土・ふるさと | 更新情報をチェックする
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