2020年07月28日

120字の読み物世界No.28~ウィリアム・アイリッシュその4 「幻の女」

 著者:ウィリアム・アイリッシュ 訳者:黒沼健
 原題:Phantom Lady(米国1942年)
 『宝石』(1950年5月号)一挙掲載「幻の女」より

妻殺しの容疑でスコットの有罪は確定した―が、犯行当時彼は、行きずりの女と連れ立って、歓楽街を彷徨っていたのだ!女を探せ、目撃者を探せ、無罪を信ずる彼の愛人と親友の、執念の探索が始まる。だが有力な手がかりは、掬い上げたはしから零れ落ちていく・・・死刑執行日まで、残された時間はあと僅か!!
『宝石』(1950年5月号)「幻の女」一挙掲載.jpg

※『宝石』(1950年5月号)「幻の女」一挙掲載

「昭和二十一年二月二十日読了、新しき探偵小説現われたり、世界十傑に値す。ただちに訳すべし。不可解性、サスペンス、スリル、意外性、申し分なし。」

 William Irish著「Phantom Lady」を論評した、おそらくこれが本邦初の文章でしょう。簡にして要を得た、しかも熱情迸る名文です。

 ただしこれは読了直後、興奮冷めやらぬまま、本の余白に感想を書きつけたメモみたいなもので、誰かに読ませる意図はなかったと思われます。
 ところがのちに「Phantom Lady」を公に紹介する際、読了時の興奮を直截に伝えようと、このメモを引用することになりました。
 ポケミスの一冊、コーネル・ウールリッチ「黒衣の花嫁」(早川書房 黒沼健・訳1953年9月初版)の解説として書かれた、「ウールリッチ=アイリッシュ雑記」がそれです。

 その解説文の執筆者こそ、江戸川乱歩。

 この「雑記」は、彼の評論集「続・幻影城」(早川書房 1954年6月初版)、および編纂書「海外探偵小説 作家と作品」(早川書房 1957年4月)にも収載されました。
 そのことが、寸感程度のメモ書きをして、「Phantom Lady」―邦訳題「幻の女」の決定的評価であらしめるかのような印象を、多くの読者に抱かせる要因にもなったと思われます。
 
 それは以降の読書界に、重大な影響を及ぼすことになったのです。

 以下、その「雑記」に即して話を進めますが―
 
 昭和12年(1937年)盧溝橋事件を発端に日中戦争が始まり、日本の中国大陸進出を懸念する欧米諸国との関係が悪化します。
 日本では探偵小説が敵性文学と見做され、新たな翻訳や執筆ができないばかりか、旧作の再版重版すら叶わない状況になりました。
 多くの探偵小説家は、捕物帳や軍事諜報小説などで糊口をしのぐか、沈黙するしかありませんでした。

 乱歩もまた然り。
 昭和15年に「幽鬼の塔」の連載が終了すると、以降約10年間は、探偵小説の執筆を絶つことになります。(海洋冒険小説「新宝島」、連作小説形式の科学読み物「智恵の一太郎」、SF風の諜報小説「偉大なる夢」といった作品は書かれています)
 乱歩は特に、欧米の探偵小説が輸入途絶により、原書ですら読むことのできない状況に極度の飢餓感を覚え、「久しく逢わない恋人のような感情」を抱くようになったのです。
 
 終戦を迎え、まだ戦禍の余燼くすぶる昭和20年の暮れごろから、乱歩は米兵の読み捨てた探偵小説を猟り始めます。また米軍が開設した図書館にも出入りして、探偵小説を物色します。
 その図書館で読んだ一冊のアンソロジー―そこで出合ったのが未知の作家Cornell Woolrichでした。
 乱歩は短篇「さらばニューヨーク」の、清新な心理的手法で書かれたスリルとサスペンスの物語に魅了されると同時に、この作家の代表作がWilliam Irish名義で出版された長篇、「Phantom Lady」であることを知るのです。

(ここからは往年のミステリ通にとって、あまりに有名な逸話なので書くのも気が引けますが、最近ではご存じない方のほうが多いでしょうから、一応書いておきましょう)

 乱歩の「Phantom Lady」探しが始まります。
 ところが、図書館も古本の露店も神田の古書街も―まさしく作中で姿を見せぬ「幻の女」のように―どこを探しても見つからない。
 見つからないとなると、恋い焦がれる気持ちは一層募ります。

 そんなある日、神保町の厳松堂に立ち寄ると、紐で括った洋書の束のいちばん上に、「Phantom Lady」があるのを見つけるのです。
 しかし喜びも束の間、店の者からそれらの本は春山氏に売約済みだと告げられます。
 春山行夫は、乱歩が海外探偵小説事情に関して寄稿を予定していた雑誌「雄鶏通信」の編集長。
「春山君なら構わない。彼に頼まれた原稿の材料になるのだから」と屁理屈を捏ねて、乱歩はその本を横取りしてしまいます。
 早々に退散すれば良いものを、ほかの本も贖って荷造りしているときに、当の春山氏がひょっこりやって来て・・・始まるのは「幻の女」を巡る恋の鞘当て。
 しかし乱歩は、「有無を云わせず本の包を抱えて、一目散に逃げ出してしまった。」(これを狂言に仕立てたら面白いだろうな)

「それほどの思いをして手に入れたからでもあろうが、「幻の女」は私を夢中にさせた」となって、一気に読了。
 そうして「新しき探偵小説現われたり、世界十傑に値す。ただちに訳すべし。不可解性、サスペンス、スリル、意外性、申し分なし」となるわけです。
 私はこの「雑記」を中二のころ、「海外探偵小説 作家と作品」(早川書房1957年4月初版)で初めて読んだものと記憶します。
 それ以前に、講談社版『江戸川乱歩全集』の「幻影城」(正・続)は読んでいたものの、紙幅の都合でしょう、この一文は全集では省略されていたような気がしますので。

 二重の意味で感激しました。

 ひとつは、小学校以来、私の最もお気に入りとなっていたミステリ作家の、作品や評価に関する情報が得られたこと。
 創元推理文庫やポケミスで数冊は読んでいたものの、「幻の女」や「黒衣の花嫁」は未読でした。(本屋で見かけることすらできなかったので)
 ここではっきり、次に読むべき作品は「幻の女」と意識し、その入手方法に頭をめぐらせることになりました。

 もうひとつは、江戸川乱歩がこの作家を戦後いち早く発見し、その代表作「幻の女」を格別に称揚していたのを知ったこと。
 乱歩は、私が全集を揃えるほど愛読した作家です。その乱歩が、これまた私のお気に入りだったウールリッチ=アイリッシュを高く評価―なんだか秘密の嗜好を乱歩と共有したような気になって、愉快でしたね。

 付け加えれば、小学生のときに図書室で借りまくって読んだ、あかね書房版『少年少女世界推理文学全集』全20巻。
 このなかで、ウールリッチ=アイリッシュにまるまる2巻分を割り当てる(ほかに2巻あるのはシャーロック・ホームズだけ)、破格の扱いとなった謎が、なんとなく解けたような気もしました。
 直接的にではないにしろ、そこには乱歩の影響力が大きくはたらいたのではないか、という―

「海外探偵小説 作家と作品」のときと同じように、さっそく私は早川書房にお手紙を書きました。
 こんどは直接購入するためでなく、ポケミスの解説目録を送ってほしいと依頼したのです。
 ほどなくして「あいにくと解説目録はございませんが、代わりに出版目録を同封いたします」との返事。
 当時はポケミスで、書名・著者・翻訳者に短い紹介文を付した体裁の解説目録は作られていなかったようです。

 同封されていたのは、ほかの刊行物も含め単行本・叢書別に書名・著者・翻訳者が羅列されただけの小冊子でした。
 そこには蠱惑的な書名が、眩いばかりにいくつも並んでいて吃驚したのですが、その話は置いといて―

 私はその目録をもとに、ウールリッチ=アイリッシュの著作をチェックし、「幻の女」と、あと1冊は迷いに迷って「死者との結婚」を選び、近所の本屋に駆け込みました。
 お取り寄せを頼んだのです。
 本屋のオバサンは「古そうな本だから、版元にもあるかどうか分らないよ」と言いながら、引き受けてくれました。

 かなり待たされたような気がします。
 二度三度と様子を窺いに赴いた末に、ようやく待望のポケミスを入手しました。

 そして―

「それほどの思いをして手に入れたからでもあろうが、「幻の女」は私を夢中にさせた」となるのですが・・・

 乱歩とウールリッチ=アイリッシュの関わり合いについては別の機会に、もう少し詳しく書いてみたいと思います。
 上の続きはそのときに。
『宝石』(1950年5月号)「幻の女」カラー口絵.jpg

※『宝石』(1950年5月号)「幻の女」折り込み口絵
かぼちゃのような帽子を被るふたりの女性
だからこそ、お互いを印象深く覚えているはずなのですが・・・


 なお、ここに掲げた書影は、乱歩の原書初読の4年後、『宝石』誌に「幻の女」(黒沼健・訳)が一挙掲載されたときのもの。30数年ほど昔、早稲田の古書街で見つけました。
 「幻の女」がポケミスに編入される際、この翻訳が流用されたものと思われます。
 参考までに掲げましたが、私が初めて読んだのはポケミス版。それも稲葉明雄が改訳した改訂版でした。
posted by Pendako at 13:03| Comment(0) | 120字の読み物世界 | 更新情報をチェックする
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