2020年05月03日

ふるさと再訪~いろりの里・大平宿その4

大平宿の成り立ちと終焉
 大平宿は木曽山脈(中央アルプス)のほぼ南端、東西ふたつの峠―飯田峠と大平峠(別名木曽峠)に挟まれた小盆地にあります。
 この近辺からは先史時代の遺物(石器、縄文土器、須恵器など)が出土するなど、古くから人々が暮らしていた痕跡が残ります。
 室町時代には木地屋が三戸あった、との記録もあるそうです。
 木地屋というのは、木材を加工して日用器物や漆器の素地をつくるのを生業とする職人集団で、良質の木材を求めて各地を漂泊するのが常だったようですが、安定的に良材の得られる大平に定住した一団があったのでしょう。

 江戸時代明暦元年(1655年)、飯田城主・脇坂安吉が大坂加番を命じられたのをきっかけに、未整備な山道が大改修され、大平街道という公道が拓かれた―という話は前々回でも触れました。

 その100年後―
 飯田の木地師・大蔵五平次と穀屋・山田屋新七が飯田藩の許可を得て大平に入り、木曽からの入植者5家族とともに開墾を始めたのが、宝暦4年(1754年)のことです。
 藩の資金で上水路が引かれ、やがて紙屋・かめや・板屋の三問屋が設立されるなど、大平は飯田~妻籠間の中継的宿場町として徐々に整備され、戸数や人口も増え始めます。
 これにより大平街道は、藩主通行の道、助郷人馬の道という公的な機能に加え、物流の道、講の道として庶民の通行に供する役割をも担うようになったのです。

 五平次・新七の入植からさらに100年後―
 安政3年(1856年)に宿場町としては最盛期を迎え、全28戸、人口180人を数えます。元治元年(1864年)の記録では、宿場の一日の最大通過人数は、助郷だけで1,200人、馬100疋を数えたといいます。

 明治維新を迎え、廃藩置県によって飯田藩が管轄していた大平街道は、飯田県(のちに筑摩県を経て長野県)の所管となりました。
 学制改革や郵便制度施行は大平宿にも及びます。明治6年(1873年)に小学校、明治29年(1896年)に郵便局が設置されました。
 この小学校が、飯田・丸山小学校の分校に編入された明治36年(1903年)頃には、生徒数は90名を超えたといいます。
大平宿~小学校跡.jpg

 ※今も残る大平小学校の校舎。校門の門柱も当時のまま。手前の建物は教員官舎。

 明治37年、大平街道は県道として全面改修され、街道としての全盛期を迎えます。大正10年の記録では、大平宿の戸数75、入馬50疋、出馬50疋、運送馬車35台が往来して、その賑わいは飯田町に匹敵したとも。大正9年(1920年)には定期バスの運行が始まっています。
 しかしながらこの間に、木曽谷には中央西線、伊那谷には伊那電鉄という鉄道が開通し、大平街道の実用の道としての役割は薄れ、やがて終焉を迎えることになるのです。

 昭和35年(1960年)、大平の戸数は全盛期の約半数(38戸)に減り、街道の通行量も往時の面影を留めないほどの衰退ぶりでした。
 住民は薪炭業で生計を維持するものの、石炭石油などの化石燃料の普及により木炭の需要は下落の一途。
 ついに昭和45年(1970年)、集落の総意として集団移住の申請を提出し、その年の11月に全住民が離村します。
 ここに大平宿200有余年の歴史は幕を閉じました。

 しかし廃村となった大平宿に、多くの民家がそっくり残されました。
 ほどなくしてある企業が、この近辺の別荘地開発に着手しました。すると乱開発を危惧した有志が集まり、大平の自然保護、大平宿保存の動きが活発になったようです。
 昭和57年(1982年)に大平保存再生協議会が発足し、大平憲章が制定されました。
 憲章には「自然保護と歴史環境保全を保存の二つの柱とし、誰もが自然の中で古民家に生活して生活の原体験を学び、歴史的遺産にふれて考え、登山やスキーなどスポーツを楽しむという教育・観光・スポーツをむすびレクリエーション地域として、その再生を位置づける」とあり、この趣旨に沿って今回の体験プログラムが組まれている―というわけです。
 こうして歴史ある大平宿の佇まいは、いにしえの暮らしぶりと美しい景観とをいまに伝えてくれるのです。
大平憲章板と斉藤茂吉歌碑.jpg

 大平宿のほぼ中央に立つのが、大平憲章板。江戸時代の立て看板を模したような作りです。

 ついでながらし左側の石碑は斎藤茂吉の歌碑。
「雲さむき 天の涯に はつかなる 萌黄空あり そのなかの山」
と刻まれています。
 斎藤茂吉はアララギ派の中心的歌人。その茂吉が昭和11年(1936年)、飯田で催されたアララギ会に出席するため、木曽の三留野から大平を越えて飯田へ向かったそうです。
 そのときの旅を詠んで、「大平宿」と題した17首の短歌が残されていますが、上はそのひとつ。
 面白いのは、木曽側の大平街道のとっかかりあたりに、蘭という集落があります。「蘭」は「あららぎ」と読むのです。
 茂吉は何かしらの縁を感じたのでしょう。
 大平峠には、
「麓には あららぎといふ 村ありて 吾にかなしき 名をぞとどむる」
の歌碑もあるそうです。

 ちなみに大平宿を訪れた文人に、島崎藤村や吉川英治の名も見えます。
 吉川英治には、一部の映画通に有名な「恋山彦」という長篇小説があります。この小説の舞台(のひとつ)が大平近辺の山中なのです。おそらく大平宿を訪れた経験を踏まえたものでしょう。
 いずれ「恋山彦」を、「120字の読物世界」のほうで取り上げてみたいと思います。「一部の映画通に有名な」の種明かしもそのときに。

 次回で、大平宿泊記は終わりにしたいと思います。(まだ次回があるんか?との声も聞こえますが)
posted by Pendako at 14:15| Comment(0) | 郷土・ふるさと | 更新情報をチェックする
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