2020年01月20日

ふるさと再訪~いろりの里・大平宿その2

 前回の記事から2か月余りも過ぎてしまいました。
 昨年の夏の、家族旅行の話を細々と綴っておりましたが、年を明けてもいまだ旅の二日目。
 新鮮味は全く薄れ、季節感も何もありはしない話題となりましたが、まあ、マイペースで行きましょう。

大平街道
 「大平越とて嶮難の山路、往来も稀にして主従山の崖道ひとつ踏みはづさば、遥かの谷底へ転げ落つべく、所々道の崩(く)へ落ちたる所ありて難渋いふばかりなし。飯田より大平峠へ三里といへども道を行くにはかどらず。やうやう峠へ来るは七つ時なればこの先の道も覚束なくいまだ泊りには早けれども大平に宿を求めて泊まる」

 「定本 信州の街道」(郷土出版社 1991年7月刊)からの孫引きで恐縮ですが、上は江戸時代文政年間に出版された「滑稽旅賀羅寿(こっけいたびがらす)」のなかの一文。
 弥次さん喜多さんの道中記、「東海道中膝栗毛」の作者・十返舎一九(1765~1831年)が、越後や信濃を旅したときの見聞記―とのことです。

 大平街道(現・県道8号線)は、かつて伊那街道(三州街道とも)の飯田宿と中山道の妻籠宿とを、可能な限り最短の距離で結んだ道です。
 総距離約40㎞―
 人馬の通う江戸時代と、車の走行も可能な現在とでは、道幅や舗装状況は異なり、道筋も若干違っているかと思われますが、陽射しも届かぬ鬱蒼とした樹木林や、踏み外せばどこまで転げ落ちるか分らぬほど深い山あい―といった景観は、往時のまま。

信州伊奈郡之絵図.jpg

※飯田市美術博物館蔵「信州伊奈郡之絵図」(部分)
 正保年間(1644~1647年)、飯田藩主脇坂安元により作成され、幕府に提出された絵図の副本。絵を横切る太い筋が天竜川。赤い筋が街道を表しており、左下あたりに大平街道が描かれています。
昔は伊那が伊奈とも表記されていたようです。

 人の足で、これを1日で走破するのは厳しいので、中間に宿場町が作られました。これが今回の目的地、大平宿です。
 大平宿は東の飯田峠と西の大平峠に挟まれた小盆地にあります。

 伊那谷方面から上ると、街道の起点(飯田市街の知久町あたり)から飯田峠(標高1,235m、大平宿2㎞手前の最高地点)まで、距離にして約16㎞に過ぎませんが、標高差は約740mあります。(1㎞あたりの平均高低差46m)
 木曽谷方面から上ると、妻籠宿から大平峠(標高1,358m、大平宿3㎞手前の最高地点)まで、距離にして約18㎞、標高差は約950mとなります。(1㎞あたりの平均高低差53m)
 東海道随一の難所といわれた、箱根八里越えに匹敵する険しさです。
 いずれの側から上るにしても、ふたつの峠を越えなければ反対側に抜けられません。昔の人の苦労と危険はたいへんなものだったでしょう。

 それでもこの街道は必要だった―伊那谷と木曽谷とを往来するのに、旧来の道筋を辿るよりはるかに楽だったからです。

 伊那谷と木曽谷は、険峻な峰の連なる木曽山脈(中央アルプス)に隔てられています。
 伊那谷の人びとは、伊那街道を北上し塩尻あたりで中山道に出て、それを今度は南下して木曽谷に入る―木曽谷の人びとはその逆コースを辿らなければ伊那谷に出ることができませんでした。

 あるいは伊那谷から京や大坂方面に行く場合、遠州街道なり伊那街道なりを伝って太平洋側に下り、東海道に合流することになりますが、随分と遠回りな道のりです。
 木曽谷に出さえすれば、畿内に直結する中山道があるのに―です。

 そうした不便さから、おも に江戸中期以降に整備されたのが、権兵衛街道(権兵衛峠を経由して、伊那街道伊那部宿と中山道宮越(みやのこし)宿を結ぶ)であり、この大平街道でした。

 天文2年(1533年)に京都醍醐寺の者が仏事のため飯田に至った、という記録が残されていて、このときどうやら大平街道の道筋を歩いたようです。
 その後も、武田信玄が関所を置いたとか、道筋を記した絵図が作られたとかの記録があり、そこそこの往来はあったと思われます。
 ただし江戸時代の初期に至っても、「鹿道」とか「犬道」と呼ばれる未整備な山道に過ぎず、街道と呼ばれるのは、ときの飯田城主・脇坂安吉が領内の百姓を動員して改修させた、明暦元年(1655年)以降のこと―
 助郷(街道や宿場の整備、人足や馬の確保などを目的に、領主が近隣の村落に課した夫役のこと)も始まり、街道の往来が増えるに連れ、改修工事もたびたびおこなわれて、公街道としての機能を増した―とあります。
 
 この大平街道は何に利用されていたか―おもに伊那谷側の視点で見てみると。

 ひとつに藩主通行の道。
 飯田藩主が大坂の加番(地方の大名が赴任して、大坂城の警護職である定番または大番に加勢すること)を命ぜられることがよくありました。それなりの人数を伴に引き連れた大旅行です。なるべく旅程を短縮し、出費を切り詰める必要もあったでしょう。

 ふたつに中山道への助郷人馬の道。
 中山道は木曽路と呼ばれる区間だけで11の宿場があります。これらの助郷を木曽谷に存する村だけで担うにはあまりに厳しいので、伊那谷側の村々にも課せられたものと思われます。

 みっつに物流の道。
 伊那谷は河岸段丘上に広い平地が拓け、米などの耕作に比較的適した土地柄だったようです。また飯田は伊那街道、遠州街道、秋葉街道といった「塩の道」が交錯する場所です。
 飯田近辺で産した穀物類や、海べりから運ばれた貴重な海産物などが、大平街道を通じて木曽谷に移入されました。(逆にヒノキの美林で知られる木曽谷からは、白木や木地製品などの林産加工品がもたらされました)

 よっつに講の道。
 講というのはおもに、同じ信仰を持つ人々の組織的な集まりです。江戸時代には、信仰を通じ地縁的に結びついた人々が連れ立って、「聖地巡礼」の旅に赴くといった宗教的行事が盛んに行われていました。
 神仏にご利益やご加護を祈る敬虔な信仰の証でしょうが、物見遊山的な側面も色濃かったと思われます。
 浪花講、伊勢講、身延講、善光寺講など、この地からあの地へと巡る人びとの流れは、大平街道にも及びました。

 時代は江戸から明治に移り、県道大平線として改修が進むと、さらなる発展を遂げた―とあります。

 明治42年(1909年)に木曽谷を抜ける鉄道線(中央本線)が全線開通すると、東京からの新聞や郵便物が大平街道を通じて、飯田まで運搬されるようになったそうです。
 大平街道は、情報伝播の道にもなったのです。(テレビやラジオや、もちろんインターネットのない時代です。鉄道による情報経路短縮は、当時としては革命的だったに違いありません)
 
 人馬の行き交う道は、やがてトテ馬車が闊歩し、自動車が通行可能となり、大正時代には定期バスの運行も始まりました。
 この頃が、大平街道の最盛期だったと思われます。

 ところが明治42年の辰野~松島間開通を皮切りに、徐々に伊那谷を南へと鉄路を伸ばし始めた伊那電鉄が、大正15年(1912年)には飯田までの延伸を果たしました。
 飯田は中央本線の辰野駅と、鉄道で直結したのです。
 さらには豊川鉄道(豊橋~大海)、鳳来寺鉄道(大海~三河川合)、三信鉄道(三河川合~天竜峡)と繋ぐ鉄路が、飯田~天竜峡間に延伸した伊那電鉄と結ばれ、飯田は東海道本線豊橋駅と直結することにもなりました。
 以上の私鉄4線は昭和18年(1943年)に統合国有化され、飯田線と名称を改めます。(ただし駆動電圧の違いにより、天竜峡で車輌の乗り継ぎはあったようですが)

 伊那谷は鉄道線だけで、東京・大坂・名古屋などと繋がることが可能になりました。大平街道の役割は、大いに減退することになったのです。

 さらに昭和30年代に入り、飯田市の西に隣接する清内路村(現・阿智村清内路)から、清内路峠を経て木曽谷に抜ける道が国道に編入されると、江戸時代中期から続いた大平街道の、伊那谷と木曽谷とを結ぶ「実用の道」としての命脈は絶たれました。
 
 街道の賑わいは宿場町の賑わい、街道が廃れば宿場も廃れるのは世の習い―という訳で、あらゆる階層の旅人や、荷駄を運ぶ人馬の便宜を図って来た大平宿も、やがてこれを営む人々の棄村・・・という形で終焉するのですが、その話は次回に。

 だいぶ前置きが長くなりましたが、私たちの大平宿体験宿泊の旅に戻ります。

 妹夫婦の車を先にやり、私たちの車が続きます。
 飯田ICあたりから国道256号線で飯田市街地方面に戻ります。途中で県道15号線に入り、松川を渡って左折するとほどなくして大平街道(県道8号線)にぶつかります。
 あとはひたすらこの道を辿って行けば、大平宿に出るはず。

 この辺は道幅も広くきれいな舗装道路、なだらかな上りで沿道にはリンゴの果樹園が連なり、人家もまばらに並んでいます。
 しばらくして果樹園は途切れ、両側から樹木が迫り始めます。
 一旦視界が開けたあたりに、なにか公園だかゴルフ場だかの施設があり、そのちょっと先で猿庫(さるくら)の泉に続く道が分岐しています。
 猿庫の泉は、江戸時代に高名な茶人が茶に適した水を求めて探し当てた湧水―とのことで、名水百選にも指定されているそうですが、今回はパス。 

 街道は松川を左の眼下に臨みながら―といっても、その流れは樹林に隠れてほとんど見えませんが―飯田市のシンボル的な山、風越山の中腹の、入り組んだ山襞を縫うようにして走ります。樹木の枝が上を蔽い始め、鬱蒼とした雰囲気に包まれます。

 いつしかセンターラインは無くなり、2台の車がやっとすれ違うことができるほどの道幅に。
 崩落した路肩を補修した跡と思われる箇所もあって、スリル感は満点です。

 ちょうど道のりの真ん中あたりに煙火工場があり、それを過ぎると携帯電話の電波は届かなくなります。
 ここで、いよいよ下界と隔絶した領域に踏み入った―という気分にさせられる方もいるでしょう。なにか事故があっても、救急車やJAFは呼べません。
 まあ、20年くらい前までは当たり前の話でしたけど。
 煙火工場付近まで戻るか、大平宿まで辿りつけば、衛星回線を使った公衆電話が利用できます。

 あ、煙火というのは花火のことですね。人里離れた山奥に工場を置くというのは、もちろん万が一の事故を慮ってのことでしょう。(かつて飯田市の街中にあった煙火工場が爆発して、多くの犠牲者が出た―という私自身の目撃事例は、以前の記事で触れました)

 上から降りてくる車が意外と多く、そのたびにお互い最徐行ですれ違います。
 冷や汗のかきどおし―と我がことのように書きましたが、白状すると助手席に座っての感想。ペーパードライバーの私はここではお役御免で、もっぱら妻の運転でした。肝の据わっている人なので、ことに狭い箇所ですれ違う際にはバックして相手の車を優先させるなど、余裕の運転ぶりです。頼りになりました。

 山の中をうねうねと登り詰め、ようやく飯田峠を越えると下り坂になります。
 ほどなくして盆地―というか窪地に入り、それらしき建物を一軒二軒とやり過ごしながら渓流に懸る橋を渡ると、大平宿の駐車場に到着です。
 所要時間は車で50分―と聞いていましたが、一時間とちょっとかかりました。
 窪地だけに周囲には山と樹木がぐるりと巡らされ、外界の展望はまったくありません。
その代わり4百年近い歳月を一気に遡ったような、いにしえの宿場町の佇まいがそこに残されていました。
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posted by Pendako at 23:51| Comment(0) | 郷土・ふるさと | 更新情報をチェックする
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