2019年11月05日

ふるさと再訪~河岸段丘の町・飯田その4

飯田大火とリンゴ並木
 飯田城址一帯の区域(追手町)を抜け、市街地に向かいます。
 市街地の南西側に、やはり段丘面の縁に沿って、こじんまりした飯田市立動物園があります。入園無料。(翌日に家族と入場しました)

 動物園の入り口あたりから北東方向に、並木通りが伸びています。ここから約400mに亘って続くのが、有名なリンゴ並木です。
りんご並木.jpg
  
 幅広の道の中央分離帯に、幾種類ものリンゴの木が植えられています。
 中央分離帯というより、細長い公園です。様々なモニュメントやオブジェが据えられ、その脇をプロムナードが抜けていきます。
 どの木にも青々としたリンゴの実が成っていました。若干赤く色づいたものもあります。
 ほのかにリンゴの香りが漂い、清新な気持ちにさせてくれます。

 このリンゴ並木ですが・・・

 昭和22年(1947年)4月20日、桜も花開いた穏やかな春の日、突如として飯田の町を大参事が見舞いました。
 「飯田大火」と呼ばれる大火災です。

 民家の煙突から出た火の粉が原因と言われていますが、好天続きで空気は乾燥、平均風速10mの南風にも煽られて、旧市内南部の一角から上がった火の手はたちまち東西に広がって、北側を横切る飯田線の沿線あたりまで達したようです。
 まるで市街地全体を、包み込むようにして延焼したのです。

 この「飯田大火」は、それこそ当事者も含め何万人もの市民が居合わせ、目撃したわけですが、私の母親もそのひとりでした。

 母の生家―つまり先ほど訪問した従兄弟の家―は、市街地とは飯田線で隔てた外側の、やや高台にあります。
 飯田の町並みを、小高い位置から一望できるわけです。

 この日の様子を順序立てて聞いたわけではありませんが、折につけ母は、断片的に当時のことを話してくれることがあり、それらをつなげるとこんな具合―

 勤務が非番で、家で昼食の支度を手伝っているとき、まず誰かが焦げ臭い匂いに気づいた。
 半鐘が鳴り始めたので、市街地のほうを眺めると、屋根の連なる遥か向こうに煙が見え、それが短時間のうちに左右に広がっていった。
 そのうち治まるだろうと思っていたが、たまに町の様子を窺うと鎮火の気配はまるでなく、町中から白煙黒煙が、渦を巻いて立ち昇るような景色になっていた。
 近所の住民が、何やら大声を掛けあっていた。
 消防団が家々を回り、町の様子を伝えながら助勢を募っていた。
 目の前の東中学校の校庭に、人々が避難してきた。
 その人たちを追いかけるように、火の手がどんどん母の家のほうに迫って来た。
 誰かが「飯田線があるから火は回って来ん」と言ったので、避難はしなかった。準備はしたかも知れない。
 母がもっぱら考えていたのは、(市街地の真ん中にある)自分の職場の様子や、勤務中の同僚たちの安否だった。
 夕暮れどきになると、「手の届くようなところで」煙と炎が一緒くたになり、そこからもの凄い勢いで火の粉が舞い上がるのが見えて、さすがに「こりゃうちも危ない」と思った。
 夜中になると火の勢いは衰えた。
 なにがなんだか分らない一日だった。翌日のことは覚えていない。

 やはり飯田線の手前で延焼は止ったそうですが、家の近くの桜町駅は全焼したとのこと。

 この飯田大火の罹災面積は60万㎡―当時の市街地の約8割に上ったといいます。
 罹災戸数3,577戸、罹災世帯数4,010世帯、罹災人数1万7,771人、死者1人、行方不明者2人、重傷者80人、損害額15億円(当時の金額)・・・
 これほど大規模な延焼となったのは、防火・消火設備の不足と初期消火の不良にあったとされます。(一例を挙げると、消火栓の数が少ないうえ、火元の近くも遠くも一斉にそれらを開いたため水圧が下がり、消火に必要な放水ができなかった―など)
 
 江戸時代から続き、戦災も免れた由緒ある「信州の小京都」は、終戦後2年の陽春、一昼夜にして焼け野原となったのです。
 人的被害は最小限にとどまったものの、旧市内の大半の市民は、裸一貫での復興を余儀なくされることになりました。

 大火の教訓を元に、新しい街づくりが始まります。
 町割りを碁盤目状に配したり、「裏界線」と呼ばれる幅2mの避難路を整備したり・・・
 ふたつの防火帯道路を、市街地の中央で十字に交差させ、全体を四つの区域に仕切ったのもそうです。どこで火災が起こって延焼しようとも、区域内で食い止めようという発想。
 その幅広の防火帯道路のひとつが、後に並木通りと呼ばれるようになります。

 大火から数年後、飯田市立東中学校の生徒たちから、防火帯道路にリンゴ並木を植えることが発案されました。
 東中学校の校舎は延焼を免れたものの、生徒のうち400名余りが罹災し、家を失った多くの罹災者を収容したこともある―そうした記憶がこの発案につながったのかも知れません。

 まだ食糧難の時代です。当初は「リンゴの実が成っても盗まれるに決まっている」との反対意見もあったそうですが、「リンゴの実を大切に育てる、美しい心をもった人々の住む町をめざす」という信念で実現したプロジェクトー昭和28年(1953年)、東中学の全校生徒が参加して、リンゴの成木47本が、通りの中央分離帯に植樹されました。

 収穫初年度(昭和30年)―
 手入れに不慣れなこともあったのでしょう、途中で枯れた木も多く、初夏に結実が確認できたのは47個。
 夏から初秋にかけ落ちた実もあり、生徒の願い空しく実を盗む輩などもいて、秋に収穫できたのはたった5個だったと言います。

 ところがこの、生徒の願いと盗難という現実が新聞などで報道されると、県の内外から支援の申し出や激励が次々と寄せられ、これらに力を得て、翌年から収穫は飛躍的に伸び、盗難件数も減るようになったそうです。

 もちろんその後も幾多の苦難が待ち受けていましたが、それを乗り越え、現在も東中学の年間を通じての課外行事として、リンゴ並木の維持管理(植樹、施肥、剪定、除草、収穫など)が続けられているとのことです。

 恥ずかしい話、私が飯田に住んでいた頃、リンゴ並木の存在は知っていたと思いますが、その由来や苦闘の歴史などつゆ知らず、他県に転校し、そこでの授業で取り上げられて初めて知った次第。
 「エヘン」とばかりに「飯田はボクの生れた町です。東中学は従兄弟のうちの真ん前にある学校で、いつもその校庭で遊んでました」と自慢できなかったのが、妙に情けない思いがしたものです。

 今ではリンゴ並木は、飯田大火の復興シンボル―というより、飯田市そのもののシンボルとして、毎年赤い実を鈴なりに連ねているそうです。

焼肉の町・飯田
 リンゴ並木をひと通り見て歩くと、5時を過ぎていました。
飯田市街地.jpg

 並木通りと中央通りの交差点を折れて、銀座通りに出ます。
 中央通り沿いに千劇という映画館(写真右上)がありましたが、昔は中劇(中央劇場)という名称だった思います。東映の時代劇なんかやっていたんじゃないかな。
 写真右下は銀座通りに出て、歩いてきた中央通りを振り返って撮ったもの。奥に見える鉄塔のあたりに、母親のかつての職場がありました。
 銀座通りには伊賀屋人形店(写真左上)、トキワ劇場(写真左下)がありました。外観はすっかり変わっていると思いますが、いずれも子どもの頃のお馴染みだった場所です。
 
 それにしてもひと気の少ない街並みです。

 宿に戻ると、湯上りの家族たちが夕食をどうしようという相談をしていたので、ここはひとつ焼肉で―ということになり、フロントでお奨めの店を紹介してもらいました。
 飯田市は人口比で焼肉屋の軒数が全国一とのことで、それを知る宿泊客も多いのでしょう。宿では市内の焼肉屋マップなるものを用意していて、それをもとに店ごとの特徴などを詳しく教えてくれました。
 お奨め順に電話をかけたのですが、どこもほかの予約でいっぱい、四軒目にしてようやく確保できました。
 
 まだ時間があったので家族引き連れ、少し遠回りしてリンゴ並木をまた歩きました。
 店は銀座通りと中央通りの交差点近く。
 ごく普通の構えの焼肉屋でしたが、中に入ると家族連れや勤め人のグループなどで大賑わいでした。
 表通りの静けさが嘘のよう―
 まるで飯田の住人は、夕暮れどきになると焼肉屋で、一斉に気勢を上げる決まりになっているかと思ったくらいです。

 焼肉を美味しくいただきました。勧め上手の若い女性店員さんがいて、お酒のピッチも上がりました。ご飯大盛を注文すると洗面器くらいの器(というのは少し大げさですが)に、山盛りで出てきたのでびっくりしました。
 
 この地で焼肉文化が浸透したのは―

 満蒙開拓団の引揚者がもたらした―という説があるようです。
 満州国建国(1932年)を機に、国策として日本全国から開拓民が続々と満蒙(満州および内モンゴル)の地に入植したわけですが、その数は長野県が全国一、中でも伊那谷出身者が最も多かったそうです。
 終戦後、それらの開拓民が引き揚げて、入植先で盛んに食されていたマトンやラムなどの焼肉料理―いわゆるジンギスカン料理を伝えたということです。
 今回食事した焼肉屋には、特に変わった種類のものは置いてなかったと思いますが、飯田近辺のスーパーでは猪、鹿、熊、馬、そしてもちろん羊など、焼肉用の味付け肉がごく普通に売られています。

posted by Pendako at 11:00| Comment(0) | 郷土・ふるさと | 更新情報をチェックする
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