2019年03月08日

120字の映画館No.18~大林宣彦その2 「さびしんぼう」(続き)

(承前)
なんだかへんて子.jpg

 ※原作の山中恒「なんだかへんて子」(偕成社 1985年04月初版)

 さて―

 「さびしんぼう」というのは、大林宣彦監督の造語です。

 「ひとを恋するとき、ひとは誰でもさびしんぼうになる」

 ―という主人公の独白が劇中に出てきますが、なんとなく分るような、分らないような・・・

 憧れの対象を希求するとき―とくにナイーブな少年や少女が初めて人を恋するとき、彼らの中に不安定な感情のゆらめきが生じます。

 あこがれ、ときめき、おそれ、もどかしさ、切なさ、割り切れなさ、ほろ苦さなど、さまざまな気持ちがないまぜになり、相手のちょっとした素振りにも、敏感に揺れ動く心の状態です。
 それを大林監督は、「さびしい」と表現するのです。
 
 そうした感情を抱きながら鬱々とする彼らを「さびしんぼう」と言い、転じてその感情を引き起こす、憧れの対象をも「さびしんぼう」と呼ぶ。
 そんな意味合いの造語だと思います。

 正直なところ私個人としては、人前で口にするのは、ちょっと面映い言葉ではありますが・・・

 ところが少年少女の初恋が、順調に成就することなど極めて稀で、大抵は失恋の痛手を抱えたまま成長することになります。

 時を経て、歳を重ねるうちに、失恋に傷つくほど純粋で無垢な心などいつしか消え去り、やがて若干の妥協のもと家庭を持ち、子に口やかましい親となる・・・

 それでもふと、はるか昔のあの頃を追憶すれば、セピア色に変色してはいるものの、そこには自分だけの「さびしんぼう」がひっそりと息づいている―

 この映画は、そんな追憶に浸るきっかけを観客自身に与えてくれる―つまりこれこそが映画「さびしんぼう」のテーマだと思われます。

 そのテーマに沿って捉えなおすなら、「百合子篇」と「へんて子篇」―ふたつの物語は、連綿と続くひとつの物語の、前篇と後篇という見方もできるのです。(もちろん時系列や人物の異同は無視しての話)

 外見上はまったく色合いの異なるふたつの物語が、違和感なく併存することができる所以だと思います。

 いささか牽強付会気味に申せば、ヒロキの「さびしんぼう」である橘百合子―

 橘の花言葉は「追憶」、百合の花言葉は「純粋・無垢」

 このセピア色にくすんだ初恋物語のヒロインに、実にふさわしいネーミングではありませんか。

 それはともかく、ヒロキと百合子、ヒロキとさびしんぼう―いずれの関係も、痛切なほど哀しい結末を迎えます。

 ですが、この映画にはエピローグが添えられています。

 哀切の余韻に沈んだ映画館の観客は、おそらくここで深く安堵し、幸福感に包まれたことでしょう。

 人を想い、人に想われる・・・その都度「別れの曲」が繰り返されるものの、この営みは次々と連環しながら、永遠に続くことを暗示させる、そんな幕切れです。
 
 百合子とさびしんぼうの二役をこなした富田靖子さんが、さらにふたつの役柄で登場しますが、それは観てのお楽しみ―ということにいたしましょう。

 私が最初にこの映画を観たのは、封切り時(1985年4月)、渋谷東宝においてでした。

 第1回の東京国際映画祭がもうじき開催される―ということで、なんとなく渋谷の街が湧き立っていた頃のことです。

 私はというと、同時開催の東京国際ファンタスティック映画祭のほうに注目しており、その前売りチケットを入手しようと渋谷に赴いたついでに、「さびしんぼう」を観たような気がします。

 いつも心の片隅に大事にとっておきたい、思い出の映画になりました。
posted by Pendako at 11:15| Comment(0) | 120字の映画館 | 更新情報をチェックする
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