2019年03月07日

120字の映画館No.17~大林宣彦その2 「さびしんぼう」

 監督:大林宣彦
 製作:アミューズ/東宝 1985年
 出演:富田靖子、尾美としのり、藤田弓子、小林稔侍
 原作: 山中恒「なんだかへんて子」

面影を心のフィルムに焼き付けて―ひとりの少年の、憧れの美少女に寄せる想いは、「別れの曲」の調べに乗って切なく揺蕩う・・・と思いきや、変てこ少女さびしんぼうが現れて、大騒動を巻き起こす!この少女は何者?風に舞った古ぼけた写真に秘められた、もうひとつの恋物語とは?

さびしんぼう.jpg


 大林宣彦監督の故郷、広島県尾道市を舞台にした三部作の、「転校生」「時をかける少女」に続く第3作目。

 この映画は、もちろんカラー作品ですが、映画全篇に亘って画面の色調が、微かにセピア色にくすんでいることを、まず指摘しておきたいと思います。

 記憶のフィルムに写し撮った若き日の情景を、はるか後年に追憶するという、ノスタルジックな物語。
 映画の観客をその世界にいざなう、大林監督の映像マジックです。

 この映画の魅力や仕掛けについて語ろうとすると、どうしても物語の内容に言及しないわけにはいきませんので、当ブログの趣旨に反しますが、まずは簡単にあらすじから―

 寺の住職のひとり息子で、高校二年生のヒロキ(尾美としのり)を主人公に、冬のあいだに起こったふたつの物語が並行して語られます。

 便宜上このふたつを、「百合子篇」と「へんて子篇」としておきましょう。

 「百合子篇」は、監督自身の体験を色濃く反映した(と思われる)、初恋と失恋の物語。

 ヒロキの憧れのマドンナは、高台から見下ろす女子高の生徒で、放課後の教室でいつもピアノを弾いている美少女、橘百合子(富田靖子)です。(この時に流れるショパンの「別れの曲」は、以降全篇に亘ってリフレインされます)

 しかしヒロキは、その姿をカメラの望遠レンズ越しでしか、拝むことができません。
 あるいは、海を隔てた向島から渡船と自転車とで学校を行き来する彼女の通学姿を、せいぜい遠目から追いかけるだけ。

 ヒロキは、冬休み中になんとかきっかけを掴んで百合子に手渡そうと、クリスマスプレゼントまで用意するのですが、渡す機会はおろか口を利くこともままならないうち、冬休みが終わります。

 ですが二月に入ったある日、ヒロキに僥倖が―

 自転車のチェーンが外れて難儀する百合子に出合わせたヒロキは、その修理を申し出ます。
 このときふたりのあいだに初めて会話が交わされ、成り行きでヒロキは、彼女を向島の家近くまで送っていくことになるのです。

 尾道の美しい情景と相まって、同道するふたりの初々しくも、しだいに心を通わせていく姿が微笑ましい、実に特筆すべき名シーンです。

 この夢のような出会いに有頂天となったヒロキ。

 ところが、その後の百合子の態度はつれなくて・・・ヒロキはしばし茫然とするばかり。

 そしてそんなある日ヒロキのもとに、百合子からチョコレートの小箱が送られて来るのです。
 訣別の手紙が添えられて。

 彼女には、誰にも知られたくない秘密があるようです。
 意を決したヒロキは、その日の夕刻、百合子に会いに向島に渡るのですが、そこで彼が見たものは?

 ―というところで、残酷なまでに哀切なクライマックスを迎えることになるのです。(この映画のなかで、最も心が洗われるシーンでもあります)

 そうしたヒロキの儚い初恋を巡る、幾つかのシークエンスの合間に挟みこまれるのが、もうひとつの物語「へんて子篇」。
 実はこちらの物語のみ、山中恒の原作「なんだかへんて子」に拠っています。
 
 お寺の大掃除以来、なぜかしらヒロキの前に突然現れたり消えたりする、白塗りメイクの変てこな女の子、さびしんぼう(富田靖子の二役)。

 天真爛漫ながら、どこか寂しげな少女です。
 なぜか水に濡れると死んでしまうという、弱点もあるらしい。

 この少女が現れるたび、周囲の人びとを巻き込む騒動が勃発する、というコメディタッチのファンタジーです。

 彼女は、いつも「勉強しなさい」と口やかましい、ヒロキの母親タツ子(藤田弓子)に幻滅していて、たびたびちょっかいをかけもします。

 正月にタツ子の同窓生(樹木希林)とその娘(小林聡美)が訪ねてくるや、さっそくさびしんぼうがふたりの微妙な交友関係を暴き、引っ掻き回すくだりは、抱腹絶倒もの。

 もちろん、このさびしんぼうがいったい何者で―すでに薄々お分かりかと思いますが―どこから現れるのかは、物語が進むにつれ明かされていきます。

 少女時代に恋をして失恋したタツ子が、いまはその相手の面影を息子のヒロキに投影している―そんな事情も分かってきます。

 ちょっと間違えればきわどくなりそうなモチーフを、照れ隠しのようなギャグを散りばめながら描いているのです。(例によってスベるギャグが多いですが)

 そして迎えるクライマックスは、「百合子篇」でのヒロキと百合子の別れのシーンの、すぐあとにやってきます。

 明日が誕生日というさびしんぼうは、「私は十六歳の私なの。十七歳にはなれないの」です。

 降り始めた冷たい雨の中で、ぬくもりを確かめ合うように抱擁するヒロキとさびしんぼう―彼女のマスカラが黒い涙となって頬を伝い、このふたりのあいだに、永遠の別れが訪れます。

 これらふたつの物語―

 仔細に考えてみると、相互に干渉する要素はあまりないように思われます。
 ヒロキという主人公、尾道という舞台、ひと冬の出来事、ヒロインを演ずるのがいずれも富田靖子、という共通項があるだけです。

 かたや淡く切ない少年の初恋物語、かたや少年の家庭で巻き起こるドタバタ調のファンタジー―と、肌合いも異なります。

 まったく水と油の別個の話を、無理やりくっ付けたと思えなくもないのです。
 ですが観ているあいだは、そんな違和感がまったくないのが不思議。

 何か映画全篇に、一貫したテーマがあるのだろうか―

 強いて探そうとするならば、この映画の題名「さびしんぼう」がまさしくそれでしょう。

 「さびしんぼう」は、実は「へんて子篇」に登場する、白塗りメイクの少女だけを指しているわけではありません。

 人を想い焦がれるときの、心の有り様―これらを擬人的に言い表したのが「さびしんぼう」

 大林宣彦監督の造語であり、これこそがこの映画のテーマになっているのです。

 ―と、ちょっと長くなりそうなので、続きは次回に。

posted by Pendako at 22:13| Comment(0) | 120字の映画館 | 更新情報をチェックする
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