2018年11月30日

120字の映画館No.11~黒澤明その4 「生きる」

 監督:黒澤明 製作:東宝 1952年
 出演:志村喬、小田切みき

♪いのち短し恋せよ乙女♪これは乙女ならぬ初老の男の、余命半年の物語。死の恐怖を打ち消すは享楽の巷か、若い娘の零れんばかりの生命力か。いや彼は―ささやかな使命に生を預けた。誰にも知られず、愚直に、粘り強く彼は生き、やがて雪降る公園で、最期の唄を・・・


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 たいていの映画では、始めに映画会社のロゴが仰々しく映し出された後、主要キャストや主要スタッフを紹介するクレジット・タイトルが流されます。その最後に監督名が出て留めとなり、本篇に入っていく―というのが通例で、映画製作ではやはり監督と云うのがいちばん偉いんだな、と思います。
 ですが私は、映画で最も重要な骨格は、脚本にあると思います。映画の良し悪しを決定する、最大の要素が脚本だと思うのです。

 最良の脚本があったとして、それを生かすか殺すかは監督の手腕です。最良の脚本から大傑作が生まれることもあれば、駄作(これが言い過ぎならば、トホホ作品)に終わることもあります。(例として黒澤明監督の「椿三十郎」と森〇芳〇監督の「椿三十郎」)
 しかし最悪の脚本からは、駄作以外生まれません。平凡な監督が平凡に演出しても、天才監督が全才能を傾注しても、脚本の出来以上の作品は生まれないでしょう。(例を挙げたら切りがないので、ここでは黒澤明にちょこっと関係する、今井正監督「妖婆」と橋本忍監督「幻の湖」を)
 では、最良の脚本とは―?
 というのはおいおい考えていきたいと思いますが、黒澤明の作品は押しなべて脚本が優れています。無声映画の時代から培われてきた、脚本の文法というものを自在に駆使するだけでなく、大胆で斬新な手法をどんどん取り入れています。
 だから黒澤映画の脚本は、それ自体ひとつの作品として読むこともできます。(かつて岩波書店『全集 黒澤明』全7冊を、夢中になって読みました)

 物語の主人公は、余命いくばくの恐怖を紛らわそうとする無為な日々を経て、あるきっかけから、残された人生に自分の使命を見いだし、「さあこれからだ」とばかりに市役所を飛び出して、現地視察に赴こうとする・・・
 映画「生きる」の脚本で凄いのは、そこで場面が切り替わり、亡くなった主人公の、お通夜の席にワープするところです。主人公の事跡は、お通夜の席に集まった人々の口から語られます。A→B→Cと描かれるべきところ、A→C→Bとなっているのです。
 仮にA→B→Cという形で進むならば、おそらく全篇通じて主人公の主観のみで語られるでしょう。それなりに感動的な作品に仕上がるとは思いますが、哀れで健気で勇気ある人物を淡々と情緒的に描くだけの、平板なものになったと思います。
 この大胆な回想形式を取り入れて、A→C→Bと語ることにより、そこに主人公を取り巻く人々の、客観的な視点が加わります。哀れで健気で勇気ある人物を、重層的な評価を加えながら描くことになり、物語に説得性と深みをもたらしているのだと思います。
 脚本は黒澤明・橋本忍・小国英雄の三人、最強の脚本チームです。
生きる・映画パンフ.jpg

 浅草で初めてこれを観たとき、心が揺さぶられ、涙が溢れて堪りませんでした。私はまだ若く、そこそこ健康体だったので、純然たる物語として感動したのです。
 次に新宿で観たのは、私が仕事に行き詰まりを感じていた頃のことです。やはり心が大きく揺さぶられ、こっそり涙を拭いながら観終えました。
 死を宣告されたとき、自分はどう生きるだろうか?
 そんなことを考えていると、仕事の悩みなど、大した問題ではなくなりました。
(途中省略して・・・)つい最近はDVDでの鑑賞です。自宅だったので誰に気兼ねすることなく、滂沱の涙となりました。
 ふと気が付けば、私は志村喬演ずる市民課長の年齢を超える歳になっていました。
 これまで私は生きてきたのか、死んだままで過ごしてきたか?
 自分に大きな命題が、突きつけられたような気がしました。
 私も所詮、「生きる」に登場する、その他大勢の市役所職員同様に、いっとき感激してやる気を奮い立たせるも、やがて日常の些事に埋没していくのかなあ・・・
 そんなことも、ちょっと考えさせられました。

 娯楽映画好きな私の父は、「生きる」は毛嫌いしてましたね。黒澤作品の中でこれだけはつまらん―と。晩年は「生きる」の主人公みたくなってましたが。

posted by Pendako at 13:03| Comment(0) | 120字の映画館 | 更新情報をチェックする
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