2017年10月19日

一枚の写真から

 先月9月の中旬、ひとり実家に戻って数日間を過ごしました。

 目的はいくつかあったのですが、ひとつは近々不用な家財を大量処分する必要に迫られているため、とりあえず残しておきたい物品だけでも選り分けておこうと考えたため。

 我が家といっても木造の、申請しさえすれば耐震補強の補助金が即刻下りそうなあばら家ですので、それに見合ったものでしかないのですが、私の一家がここに移り住んで55年経過したなりに、量的にはかなりの家財が詰まっています。

 十数年前に父親が亡くなったときにも、一度仕分け作業をやったことがあり、遺品の中から家族の誰も知らなかった、ちょっとしたお宝が見つかったことがありました。

 そんなわけで―
 今回はどんなお宝が、発掘されるのを待ちわびていることだろう…という期待を胸に、家中くまなくあら捜しを試みたのですが、骨董価値、金融価値のありそうなものは出てこなかったですね。
 まあ、そんなもんでしょう。

 その代わり…というにはトホホな代物ですが、私にとってはとても貴重なものがいくつか出てきました。

 この写真なんかもそうです。

「黒部の太陽」ロケ見学19670915.jpg


 おおよそ50余名が並んだ集合写真の一部を切り取ったものですが、写真の裏面には私の父親の筆跡で、

 「昭和42年9月15日 映画「黒部の太陽」ロケの
  石原裕次郎、三船敏郎、山内明、玉川伊佐男と共に従業員家族参加
  於、熊谷組豊川工場」

 とあります。

 トリミングした枠外に、父親や私、私の同級生なども収まっているのですが、ここでは省略。

 地べたに胡坐を掻いた4人の人物が、左から玉川伊佐男、石原裕次郎、三船敏郎、山内明―

 玉川、山内のおふたりは、滋味深い脇役として戦後の映画、テレビに数多く出演されていますが、いまでは知らない方のほうが多いかと思います。

 しかし三船敏郎、そして石原裕次郎は、特に昭和の映画、テレビ、歌謡といった大衆文化に馴染んだ方なら、誰しもが知る大スターでしょう。

 そのふたりが世紀の競演を果たした映画こそ、1968年(昭和43年)公開、熊井啓・監督の「黒部の太陽」。

 老舗建設会社である熊谷組(本社:東京都新宿区)のホームページに、「黒部の太陽」についての記述がありますので、その一部をお借りして次に引用してみます。

当社は黒部川第四発電所(通称くろよん)建設において、資材輸送の要となった関電(大町)トンネル(長野県大町市から富山県中新川郡立山町)の工事を担当しました。昭和32年5月 同トンネル施工中に岩盤の中で岩が細かく割れ、地下水を大量に溜め込んだ軟弱な地層である破砕帯に遭遇し、この破砕帯を突破するまでに約7ヶ月もの月日がかかりました。
 この困難に立ち向かった男たちの物語は木本 正次氏により「黒部の太陽」として小説(毎日新聞に連載)となりました。その後、同小説は三船 敏郎さんと石原 裕次郎さん主演で映画化され、男たちのロマンとそのスケールの壮大さが大きな話題となりました。この映画製作には、当社工場敷地内に本物そっくりのトンネルセットを組み立て、撮影を行うなど、当社は全面的に協力しました。


 この記述の最後にある「当社工場敷地内」というのが、昭和33年10月、愛知県豊川市に開設された熊谷組豊川工場のことで、私の父は、おそらくは工場開設に合わせて従業員に採用され、ここに勤務していたのです。

 その撮影期間中、工場従業員の家族を招待して、映画製作現場の見学会が何回かに分けて催されたようです。

 前後の記憶があやふやで何とも言えないのですが、家族の中で参加したいというのが私ひとりで心細く、いちばん仲の良かった級友を誘って現地に赴いた…という経緯だったのでしょう。

 宏大な敷地の一角に、黒いビニールシートに覆われたかまぼこ型の特設棟があったことは覚えています。

 内部の、トンネルを模したセットも見学したはずですが、はっきりとした記憶がありません。
 数十人の見学者が、列をなして内部を進みながら、いろいろ説明を受けた…そんな光景がぼんやりと浮かんでくるだけです。

 見学会の終盤に出演者との記念撮影があり、それが上の写真として残っているためか、このあたりの情景はかなり鮮明です。

 三船敏郎や石原裕次郎の膝の上に幼児が乗っかっています。
 はじめのうちは遠慮がちだった親御さんたちに声掛けし、子どもたちを引導して俳優たちの膝に座らせていたのが私の父親で、映画界の二大スターを前に緊張気味だった見学者を、和ませるような役目をしていました。

 別に見学会の世話役だったわけではありません。
 自分の持ち場を離れて私と友人をここに案内してきただけなのですが、ちゃっかり私たちに同行し、最後は記念写真にも一緒に収まっている…という父親の剽軽な一面に、正直なところ私は少々気恥ずかしい思いをしたものです。

 それにしても三船敏郎も石原裕次郎も尊大なところが一切なく、終始にこやかに見学者たちに接していたのが印象的…というのは後年になってからの感想。

 実はこのとき小学6年の私は、三船敏郎も石原裕次郎も日本映画の屋台骨を支えてきた大スター―という認識が皆無だったのです。

 当時は怪獣ブームの真っ只中。銀幕のスターといえば、東宝のゴジラやキングギドラ、大映のガメラや大魔神でした。
 テレビで夢中になったのは「ウルトラQ」や「ウルトラマン」。「太陽にほえろ」の放映はその数年後のことです。

 怪獣映画との併映で、若大将シリーズにも馴染んだためか、映画や音楽のアイドルは加山雄三。双方に出演していた星由里子さんが、憧れの女優さんでした。(おっと、水野久美さんや若林映子さんも忘れちゃいけない)

 というわけで、ホコリっぽい作業ズボンでの出で立ちとなったおふたりは、妙にその場の雰囲気に溶け込んでいて、普通に現場で働くおオッサンたちといった感じでした。

 記念写真の存在を、私はすっかり忘れていたのですが、このたび数十年ぶりに逢いまみえた…という次第。
 父親の思い出とともに、当時の情景が少し甦ってまいりました。

 家の片づけが一段落して―
 
 往時を偲んでみようと思い立ち、ふらりと散歩に出かけました。その気まぐれがとりとめのない状況に展開して…

 この話、もう少し続けてみたいと思います。

前回の記事でも「黒部の太陽」に触れていますが、どんな因縁があるのか、偶然にも今回、再びこの映画に言及する機会が訪れました)
posted by Pendako at 14:01| Comment(0) | 郷土・ふるさと | 更新情報をチェックする
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