2019年11月12日

ふるさと再訪~いろりの里・大平宿その1

飯田市立動物園
 旅の二日目―

 早朝、宿の露天風呂に浸かって、南アルプスの眺望を満喫。
 天気が良かったので塩見岳、赤石岳、聖岳を繋ぐ山並みが、黄金色の空を背景に、くっきりと見えました。

 宿を出て、まず立ち寄ったのは飯田市立動物園―
 特に予定していなかったのですが、動物園好きの妻が目ざとく見つけ入ることに。
飯田市立動物園.jpg

 小さい頃に何度も訪れた場所です。
 当時はそれなりの賑わいがあったような気がしますが、数十年の時を経たこの日は、家族連れやカップルが数えるほどしかおらず、少し寂しい雰囲気でした。(開園早々の時間帯だったからかも)

 ニホンカモシカやハクビシンやライチョウ(ただしノルウェー産とのこと)といった信州らしい動物もいますので、これらにヤマネとかモモンガなどを加えて、山国の動物園といった特色をもっと押し出せば面白いのですが。(無理な話ですが、オコジョがいればなおのこと)

 ここにも動物慰霊碑がありました。70年近い歴史があるそうなので、ここに祀られた動物の数はいかほどか。

 飼育員の若い娘さんが、猛禽類の檻の中で、健気にモップを振るっていました。

伊賀良荘
 この日向かう大平宿では、私の妹夫婦二組と高校時代の友人が合流―私たち一家と合わせ、総勢11名が集い、二泊する予定でした。午前中はその分の食料の買出しです。

 中央高速道飯田ICの出口あたりにりんごの里という、JAみなみ信州の農産物直売所があります。
 そこに今回の大平宿宿泊体験プログラムを運営している、南信州観光公社も入っているので、まずはそこに立ち寄り、宿の鍵と、火焚き用の薪を受けとります。
 「生ごみは必ず持ち帰ってください」と念を押されました。「熊が出る」からだそうです。
 直売所では安くて新鮮な野菜と果物を調達。早生リンゴや珍しいキノコ類、そして―田舎の夏休みとくれば―スイカ、なども贖い、店を出ると思わず吉田拓郎の「夏休み」を口ずさんで、娘から「なんだそりゃ」という顔をされます。

 高速道路をくぐってすぐのところに、キラヤ伊賀良店というスーパーマーケットがあるので、ここでは肉類やおやつ、地酒などを購入。お目当ての馬刺しは予約販売のみ、ということで入手できず。

 そんなこんなで昼どきです。
 昼食はすでに手配済み―キラヤの裏手が宅地になっていて、そこに父方の叔母夫婦が住んでいるので、お邪魔することになっていました。
 ここで妹夫婦ひと組と合流。

 やはり五平餅での歓待でした。ほかにもちらしずしやサンドイッチなどが、食べきれないほど卓に並び、残ったものは差し入れとして宿に持参することに。
 おまけに「囲炉裏で焼くとうまいから」と、釣り好きの知人から分けてもらったという、十数尾のアユやアマゴを持たせてくれました。これらは伊那谷産でしょう。
 実は妹夫婦もアマゴをたくさん持って来ていたのですが、おそらくこれらは奥三河産。
 食べ比べも一興です。

 ここで寄り道、伊賀良(いがら)という地名ですが―

 飯田市のうちでも「丘の上」から松川を挟んだ南西側の一角をいい、市に併合される前は伊賀良村といいました。

 旅に出かけるちょっと前に、宮本常一「私の日本地図1 天竜川に沿って」(同友館 1967年2月初版)という本を読んだのですが、こんなことが書いてありましたので、少しだけ紹介を。
私の日本地図~天竜川に沿って.jpg

 伊賀良村も含め、それ以南の三河との国ざかいあたりまでの町村一帯は、平安・鎌倉の時代までさかのぼると、伊賀良荘(いがらのしょう)という、広大な荘園だったといいます。
 平安後期、京都の尊勝寺―白河天皇の建てた寺―が領家(領主)となり、承久の乱(1221年)の後に後堀河天皇の御領となったそうです。
 ところが山深い荘園の南半分は長いこと未開発のままで、14世紀の中頃から落人らが、山中のそこかしこに集落をなしたとあります。

 「飯田線の電車の窓から見あげる断崖の上の緩傾斜に畑をひらいて三戸、五戸の家のあるのは、大てい古い落人の村である。戦にやぶれて、平野地方からこの山中にまでのがれて来て、広い世間の人びととの交りを絶ち、静かに世をおくろうとした人たちの住みついたところである」と著者は記します。

 私も飯田線でこのあたりを通るたび、上の文中にあるような光景を見つけては不思議に思ったものですが、やはりね、という感じ。

 日本各地に落人伝説は残りますが、この地には「熊谷家伝記」という、かなり確かな文書が残されていて、落人村のありさまを詳しく知ることができるのだそうです。
 JR飯田線中井侍駅に近い、坂部という土地の郷主であった熊谷家の、代々の主が記録したものです。

 ちなみに初代の熊谷貞直は、新田義貞―挙兵して鎌倉幕府を倒すも、足利尊氏と対立して敗れた武将―の子であったとされます。

 この「熊谷家伝記」に倣ったものか、近隣の福島という地には「福島伝来記」、市原には「田辺年代記」、向方(むなかた)には「村松由来記」と・・・多くの文書が、それぞれの郷主の家に伝えられているそうです。
 それらの内容が、実に興味深いのですが、長くなりそうなので今回は端折りましょう。

 さて、昼食を終え、いよいよ大平宿に向け出発です。
posted by Pendako at 20:53| Comment(0) | 郷土・ふるさと | 更新情報をチェックする

2019年11月10日

120字の読み物世界No.20~ふるさと文学館その3 井上靖「伊那の白梅」

 著者:井上靖
 カッパ・ブックス「伊那の白梅」(光文社1954年11月初版)より

訪ねてきた少女の顔を見て、彼はすぐさま20年近く昔の、ある女性との記憶を呼び覚ました。伊那谷に白い梅の花が咲く頃、天龍川沿いを列車で下った10日間の旅―名も知れぬ駅々に降り立ち、宿では屈託のない会話を交わす。やがてふたりは求めていた場所―恰好の死地を見いだした・・・

伊那の白梅.jpg


 井上靖の短篇6作品を収めた小説集「伊那の白梅」が、いつどこで私の蔵書に紛れ込んできたのか、判然としません。一読した記憶もない。
 そこで井上靖の小説としては、何十年ぶりかで読んでみました。どれも面白く読みました。

 巻頭に置かれた短篇、「伊那の白梅」のあらすじ―

 画家として名を成し、妻と東京で暮らす九谷のもとに、菅みさ子という画家志望の少女が、予告もなく訪ねてきます。
 みさ子は、かつて彼が信濃の地で、新聞沙汰になるほどの恋愛事件を引き起こした相手、瀬尾きみ子に生き写しでした。

 その二十年近く昔の恋愛事件の顛末が、この物語のミソになります。

 美術学校の学生だった九谷は、旅先の諏訪湖畔で旧家の娘きみ子と知り合い、懇意となります。
 九谷が旅から戻ってからも、ふたりは手紙のやり取りを通じ、また休暇のたびに逢瀬を繰り返すうち、いつしか熱烈な恋人同士に・・・

 ところがあるとききみ子から、別の男と心ならずも結婚することになったとの手紙が届き、九谷は諏訪に駆けつけます。
 しかしなすすべもなく、きみ子は婚礼の日を迎え、彼は失意のまま諏訪湖畔に留まります。

 その翌日―
 久谷の前に、夫のもとを逃げ出したきみ子が姿を現し、「いっしょに逃げて!」と懇願します。
 行くあてもないまま、ふたりは伊那線(伊那電鉄=現・JR飯田線)に乗り込むと、最初の宿を飯田に求めます。

 すでにふたりの心は、死ぬことに決まっていました。
 そして「方々へ泊って、ゆっくり天龍川を下りましょうよ」「いい場所が見つかるまでは急がないことだな」―そんな会話を交わしながら、天龍川に臨む駅々で下車しては、死に場所を吟味する旅が続きます。

 ある駅の横手に咲く梅の花-そこでふたりははじめて、唇を合わせます。

 いつしか鉄路は天龍川から離れ、豊川の上流あたりに差し掛かかります。
 そして、その河床の美しさに心奪われ、「ここに決めた!」となるのですが、思いもよらぬことに・・・。

 「ふしぎな美しい旅行」は終わりました。
 ふたりはそれぞれの生活に戻り、二度と会うこともなく時は流れます。

 九谷は画家となり、咲子という女性を妻に迎えます。
 夫のもとに戻ったきみ子はみさ子を産んで、数年後に亡くなります。
 みさ子は、後添えに入ったぬい子という女性に育てられ、美しく成長します。

 そして義母のぬい子こそが、修学旅行で上京するみさ子に、九谷を訪ねることを強く勧めたのです。
 それはなぜか?

 九谷はいろいろと推測を巡らしますが、ある疑惑が自分の身に降りかかっていることに思い当たります。

 きみ子の夫が抱いた疑惑。
 その後添えとなったぬい子が、夫の素振りから心に巣食わせた疑惑。
 そして九谷の過去を知って、彼の妻咲子さえも抱き始めた疑惑。
 それは等しく、みさ子はきみ子と九谷とが、10日間の旅のあいだに成した子どもではないか―という疑惑です。

 しかし「ただ一かけらの罪の汚れ」のないことは、九谷自身と、今は亡ききみ子だけが知るところ―
 疑惑を払拭するのは、絶望的でした。

 みさ子との初対面から三年後、彼女が天龍峡でスケッチしたいと言っていたのを口実に、九谷はみさ子と義母のぬい子を伴って、二十年ぶりに天龍川沿いを旅することになります。
 あのときと同じ季節―伊那谷のいたるところに白い梅の花が咲いています。
 九谷は、かつてきみ子と降り立った駅を確かめようとしますが、果たせません。

 「また危っかしい崖っぷちに一本の梅の木が、白い花をつけてい」るのを、九谷が無心にみつめるところで、この物語は幕を閉じます。

 ―と、40ページ足らずの短篇のあらすじを、ながなが書き連ねました。

 井上靖の作品としては、あまり重要ではないのかも知れません。
 娯楽系の雑誌に発表(初出は『小説新潮』1953年6月号)された、息抜きのような作品です。
 加えて、あまり知られておらず、(文庫などで)手軽に読める情況ではなさそう―ところが私にとっては、とても面白い作品―だからこそ、やや詳しく紹介してみました。

 この「伊那の白梅」について、もう少しコメントしたいこともあるのですが、続きは日を改めて・・・
posted by Pendako at 14:41| Comment(0) | 120字の読み物世界 | 更新情報をチェックする

2019年11月05日

ふるさと再訪~河岸段丘の町・飯田その4

飯田大火とリンゴ並木
 飯田城址一帯の区域(追手町)を抜け、市街地に向かいます。
 市街地の南西側に、やはり段丘面の縁に沿って、こじんまりした飯田市立動物園があります。入園無料。(翌日に家族と入場しました)

 動物園の入り口あたりから北東方向に、並木通りが伸びています。ここから約400mに亘って続くのが、有名なリンゴ並木です。
りんご並木.jpg
  
 幅広の道の中央分離帯に、幾種類ものリンゴの木が植えられています。
 中央分離帯というより、細長い公園です。様々なモニュメントやオブジェが据えられ、その脇をプロムナードが抜けていきます。
 どの木にも青々としたリンゴの実が成っていました。若干赤く色づいたものもあります。
 ほのかにリンゴの香りが漂い、清新な気持ちにさせてくれます。

 このリンゴ並木ですが・・・

 昭和22年(1947年)4月20日、桜も花開いた穏やかな春の日、突如として飯田の町を大参事が見舞いました。
 「飯田大火」と呼ばれる大火災です。

 民家の煙突から出た火の粉が原因と言われていますが、好天続きで空気は乾燥、平均風速10mの南風にも煽られて、旧市内南部の一角から上がった火の手はたちまち東西に広がって、北側を横切る飯田線の沿線あたりまで達したようです。
 まるで市街地全体を、包み込むようにして延焼したのです。

 この「飯田大火」は、それこそ当事者も含め何万人もの市民が居合わせ、目撃したわけですが、私の母親もそのひとりでした。

 母の生家―つまり先ほど訪問した従兄弟の家―は、市街地とは飯田線で隔てた外側の、やや高台にあります。
 飯田の町並みを、小高い位置から一望できるわけです。

 この日の様子を順序立てて聞いたわけではありませんが、折につけ母は、断片的に当時のことを話してくれることがあり、それらをつなげるとこんな具合―

 勤務が非番で、家で昼食の支度を手伝っているとき、まず誰かが焦げ臭い匂いに気づいた。
 半鐘が鳴り始めたので、市街地のほうを眺めると、屋根の連なる遥か向こうに煙が見え、それが短時間のうちに左右に広がっていった。
 そのうち治まるだろうと思っていたが、たまに町の様子を窺うと鎮火の気配はまるでなく、町中から白煙黒煙が、渦を巻いて立ち昇るような景色になっていた。
 近所の住民が、何やら大声を掛けあっていた。
 消防団が家々を回り、町の様子を伝えながら助勢を募っていた。
 目の前の東中学校の校庭に、人々が避難してきた。
 その人たちを追いかけるように、火の手がどんどん母の家のほうに迫って来た。
 誰かが「飯田線があるから火は回って来ん」と言ったので、避難はしなかった。準備はしたかも知れない。
 母がもっぱら考えていたのは、(市街地の真ん中にある)自分の職場の様子や、勤務中の同僚たちの安否だった。
 夕暮れどきになると、「手の届くようなところで」煙と炎が一緒くたになり、そこからもの凄い勢いで火の粉が舞い上がるのが見えて、さすがに「こりゃうちも危ない」と思った。
 夜中になると火の勢いは衰えた。
 なにがなんだか分らない一日だった。翌日のことは覚えていない。

 やはり飯田線の手前で延焼は止ったそうですが、家の近くの桜町駅は全焼したとのこと。

 この飯田大火の罹災面積は60万㎡―当時の市街地の約8割に上ったといいます。
 罹災戸数3,577戸、罹災世帯数4,010世帯、罹災人数1万7,771人、死者1人、行方不明者2人、重傷者80人、損害額15億円(当時の金額)・・・
 これほど大規模な延焼となったのは、防火・消火設備の不足と初期消火の不良にあったとされます。(一例を挙げると、消火栓の数が少ないうえ、火元の近くも遠くも一斉にそれらを開いたため水圧が下がり、消火に必要な放水ができなかった―など)
 
 江戸時代から続き、戦災も免れた由緒ある「信州の小京都」は、終戦後2年の陽春、一昼夜にして焼け野原となったのです。
 人的被害は最小限にとどまったものの、旧市内の大半の市民は、裸一貫での復興を余儀なくされることになりました。

 大火の教訓を元に、新しい街づくりが始まります。
 町割りを碁盤目状に配したり、「裏界線」と呼ばれる幅2mの避難路を整備したり・・・
 ふたつの防火帯道路を、市街地の中央で十字に交差させ、全体を四つの区域に仕切ったのもそうです。どこで火災が起こって延焼しようとも、区域内で食い止めようという発想。
 その幅広の防火帯道路のひとつが、後に並木通りと呼ばれるようになります。

 大火から数年後、飯田市立東中学校の生徒たちから、防火帯道路にリンゴ並木を植えることが発案されました。
 東中学校の校舎は延焼を免れたものの、生徒のうち400名余りが罹災し、家を失った多くの罹災者を収容したこともある―そうした記憶がこの発案につながったのかも知れません。

 まだ食糧難の時代です。当初は「リンゴの実が成っても盗まれるに決まっている」との反対意見もあったそうですが、「リンゴの実を大切に育てる、美しい心をもった人々の住む町をめざす」という信念で実現したプロジェクトー昭和28年(1953年)、東中学の全校生徒が参加して、リンゴの成木47本が、通りの中央分離帯に植樹されました。

 収穫初年度(昭和30年)―
 手入れに不慣れなこともあったのでしょう、途中で枯れた木も多く、初夏に結実が確認できたのは47個。
 夏から初秋にかけ落ちた実もあり、生徒の願い空しく実を盗む輩などもいて、秋に収穫できたのはたった5個だったと言います。

 ところがこの、生徒の願いと盗難という現実が新聞などで報道されると、県の内外から支援の申し出や激励が次々と寄せられ、これらに力を得て、翌年から収穫は飛躍的に伸び、盗難件数も減るようになったそうです。

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posted by Pendako at 11:00| Comment(0) | 郷土・ふるさと | 更新情報をチェックする
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