2019年08月31日

120字の読み物世界No.19~ふるさと文学館その2 山田風太郎「黄金密使」

 著者:山田風太郎
 「山田風太郎少年小説コレクション1 夜光珠の怪盗」(日下三蔵・編 論創社 2012年6月初版第1刷)より

終戦間際、台湾から空輸され、南信州の山中に放擲された金塊を狙って、凶盗魔猿団が暗躍する!その在り処を知る父親から密命を受け、娘の朋子は勇躍、信州飯田を発って一路東京へ―。襲い来る危機又危機!!彼女の窮地を救うは勇敢な露天商の少年、そして彼の飼う白い伝書鳩―
山田風太郎少年小説コレクション1.jpg

 昨年のいま時分、「山田風太郎の飯田時代~「戦中派不戦日記」より」という記事を、このブログで何回かに亘って掲載しました。
 山田風太郎と飯田市との関わりについては、その記事を参照いただくことにして―
 その後、この小説家に飯田を舞台にした作品があったかどうか気になったので、手持ちの著書をパラパラ捲ったところ、何篇か確認することができました。
 それらを順次、このコーナーで取り上げることにします。

 まずは年少者向けの冒険ミステリ「黄金密使」。

 初出は文京出版の児童雑誌『少年少女譚海』 昭和25年9~11月号。(『新青年』や『文藝倶楽部』の発行元として有名な博文館にも、同じ誌名の児童雑誌がありましたが、それとは別もの)

 終戦間際、日本軍機が台湾から相当量の金塊を本土に空輸し、飯田市近辺の山中に落とすが、その直後に敵のB29に撃墜されてしまう―
 その黄金の在り処を巡る物語です。

 飯田市郊外、旧日本軍の元少将とその娘・朋子が静かに暮らす家に、怪しげな中国人(中華民国のほう)が訪ねるところから始まります。
 金塊は、中共軍に押された国民政府軍が、捲土重来を期す資金となるはずのもの。その在り処を知るのは、この元少将しかいない。
 彼は訪ねてきた男を、金塊が帰属すべき中華民国政府の使者として迎え入れますが、不審な点もある。
 どうもその使者は、日本人が成り済ました偽物らしい・・・

 そんな導入部から、父親に金塊の在り処を託された朋子の決死の行動を追いかけて、波乱万丈の物語が展開されます。

 単なる宝探しの話か―とあなどることなかれ。
 怪盗団の暗躍あり、殺人事件の謎あり、人間消失の不思議あり、意外な被害者・意外な犯人の妙あり―と探偵小説的なギミックをてんこ盛りにした中篇小説です。
「黄金密使」挿絵(沢田重隆).jpg

※ヒロインの貴志朋子さん(「黄金密使」より 挿絵:沢田重隆)

 舞台は、飯田~渋谷道玄坂~大平(おおだいら)街道と、振り子のように移ります。
 ですが、とくに飯田や大平街道の風物が描き込まれているわけではなく、戦時中、金塊がこの近辺に隠されたというのも、作者の完全な創作です。
 あえてこの南信州の地を舞台に選ぶ必然性はあまり感じられません。どこが舞台であっても成立する話です。

 ただ一か所、朋子が賊の手に落ち、大平街道の山の中腹にある穴に閉じ込められた場面で、こんな描写があります。

・・・いまではその穴はあたりいちめん草におおわれときたまゆきかう旅人もほとんど気づきませんが、これはあの終戦の直前、その頃飯田市にそかいしていた数百人の大学生たちが、万一この信州が本土さいごの決戦場となったばあいのために、必死にほりぬいた原始的な防空壕のあとなのでした。



 この「数百人の大学生たち」というのが、終戦の年、飯田に疎開していた、東京医科専門学校の学生(そのなかに山田誠也青年もいました)をなぞらえているのは間違いないでしょう。

 また「戦中派不戦日記」昭和20年6月25日の記述では、東京から飯田へ向かう途中、山田青年は乗換駅の辰野で異様な集団に目を止め、

・・・四、五十人の男が駅前に整列していた。しゃべっているのは支那語である。どうやら支那兵の捕虜のようだ。・・・日本語で号令をかけされられて・・・どこかへ行進していった・・・
 本土決戦に備え、信州の山岳地帯に大々的に要塞線が構築中であるという。彼らはその工事に使役されているのではあるまいか。

と記しています。

 筋立てが荒唐無稽なだけに、こうした実際の見聞で潤色しながら、ある種のリアリティを出そうとしたのかも知れません。

 なお雑誌初出時の挿絵画家・沢田重隆は、あかね書房『少年少女世界推理文学全集』のブックデザインを手がけた方。以前の記事(『少年少女世界推理文学全集』再説~全集のあらまし⑦ ブックデザイン~監修)で少しだけ言及しましたので、併せてどうぞ。


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2019年08月20日

120字の読み物世界No.18~ふるさと文学館その1 笹沢左保「狐火を六つ数えた」

 著者:笹沢左保
 光文社文庫「木枯し紋次郎(八)命は一度捨てるもの」(光文社 1997年初版1刷)より

身籠ったのは狐憑きの仕業との噂が流れ、娘は辛い仕打ちに晒される。彼女が縋ったのは通りすがりの渡世人―木枯し紋次郎だった。娘の窮状に、彼は「自分が腹の子の父親だ」と人々の前で嘘を吐く!他人事には一切関わらないはずの彼が何故?その意外な言動が、ある企みを炙りだす!!

木枯し紋次郎08命は一度捨てるもの.jpg


 谷間は樹海で埋まり、山の斜面は草に被われている。名もない花が、道の脇で震えていた。さすがに風は強く、山の斜面が草原のように緑に波打っている。青い空には、ちぎれた雲が眠たそうに浮かんでいた。
 街道と言っても、山道なのである。険しい悪路の部分もあるし、雨でも降ろうものなら旅人は難儀することになる。だが、晴れた日の南北の景色は、悪路であることも忘れさせるほどであった。
 俗に、大平街道と呼ばれている。土地の人々は、飯田街道と称していた。中山道の妻籠の先の妻籠追分から、東に真直ぐに伸びている街道だった。妻籠追分から二里、約八キロで広瀬というところに出る。
 (「狐火を六つ数えた」より)

 本篇はそんな描写から始まり、その風景に、ある渡世人の孤影を配して物語は始まります。

 ご存じ無宿渡世のアウトロー・木枯し紋次郎が、中津川から中山道を上り、途中で大平(おおだいら)街道に折れて、木曽峠、大平宿、一ノ瀬の関所、上飯田村、三州街道飯田宿と辿りながら、父親の知れぬ子を身籠った、知恵おくれの娘を巡るいざこざに巻き込まれていく・・・というのがあらすじ。

 この木枯し紋次郎シリーズ―
 私は高校時代、テレビドラマ化作品『木枯し紋次郎』の初回「川留めの水は濁った」を観て衝撃を受け、毎週欠かさず視聴するようになりました。
 勧善懲悪や義理人情を朗らかに謳いあげる、生温いテレビ時代劇に辟易していた私にとって、陰影と奥行きの際立つ画作り、底知れぬ虚無感の漂うヒーロー像、ミステリ的な手法を駆使した作劇術は、実に斬新でスタイリッシュなものに映じました。

 すぐに原作本にも手を出しました。
 作者の笹沢左保については、多作ながら推理小説の秀作をものにする流行作家―ぐらいの認識はあったと思いますが、作品を読んだのはこの木枯し紋次郎シリーズが初めてでした。
 講談社から出ていた軽装版で、確か5冊目あたりまで読んだはずです。

 その後はテレビや読書の興味が他に移り、木枯し紋次郎とはいつしか疎遠となっていましたが、20数年の時を経て、光文社文庫からこのシリーズが復刊され始めたのを機に、あらためて読み直してみました。平成9年頃のことです。

 光文社文庫版が全15冊で打ち止めになろうかとする頃、後期に執筆された作品群全6冊(いわゆる「帰って来た紋次郎」シリーズ)が新潮文庫から刊行され始め、これらも矢継ぎ早に手に取ることになりました。
 したがって、この時期私は、シリーズのほぼ全篇―全21冊、作品数にして全100篇(長篇含む)―を読んだことになります。

 シリーズ全体の面白さや魅力、個々のエピソードの興趣については、あらためて稿を起こしたいと思いますが、数ある作品の中から、今回あえて「狐火を六つ数えた」を取り上げた理由だけ、少し記しておきます。

 先週、家族で南信州を旅行しました。
 観光というよりは、私の生まれ育った場所や風土を、子どもたちに見せておきたい、というだけの動機で計画した旅です。
 おもな訪問地は飯田市と、その西方の山奥にある大平宿―
 飯田市は私の生まれた場所であり、大平宿は私が幼い頃に経験した「囲炉裏とかまどのある生活」を追体験できる場所でした。
大平宿.jpg

 
※大平宿に今も保存されている古民家に宿泊しました。

 旅から家に戻り、4日間の旅で目にしたことなど、ブログにまとめてみようと考えているうちにふと、木枯し紋次郎もそのあたりを旅したはず、と思い当たった訳です。
 どの作品でどんな筋だったかはすっかり忘れてしまっていたものの、何となくどこかに飯田や大平といった地名が出てきた―そんな記憶がうっすらと甦ってきました。

 書棚から本を引っ張り出してきて、中身をパラパラ捲ってその作品を割り出す・・・という作業はある意味とても楽しいのですが今回は省略し、googleで「木枯し紋次郎」「大平宿」の2語だけで検索すると、たちどころに「狐火を六つ数えた」の作品名が判明しました。

 再読しました。
 今回の旅をルポするにしても、木枯し紋次郎シリーズを語るにしても、ちょうどいい取っ掛かりになりそうです。
 そんな訳で、ここに紹介してみることにした次第―

 とくにミステリ的な趣向が濃厚な作品―という訳でもないですが、一応狐憑きという土着的な迷信を利用した奸計が暴かれる話なので、詳しい筋は伏せておきます。

 物語は、木曽谷~大平街道~伊那谷と場面を変えて進みます。

 面白いのは、大平街道から伊那谷側に下った上飯田村でのできごと―
 狐憑きの仕業で子を孕んだ(と疑われた)娘が、憑いた狐を追い出そうとする人々に追い回され、とうとう捕まり過酷な仕打ちを受けようかというとき、そこに居合わせた紋次郎を指して「あの旅人さんが、おらにいいことをしてくれたんだよう」と、苦し紛れの嘘を放ちます。
 紋次郎は「あっしには身に覚えのないことで」と、娘の窮状を見捨てるかと思えばさにあらず、娘の嘘に口裏を合わせるように、自分が腹の子の父親であることを認めるのです。
 このシリーズでは珍しく、ユーモラスな展開です。(もちろん、そんな紋次郎の意外な言動は、物語の序盤に本筋とは関係のない別のエピソードを置くことにより、十分な説得性を有する伏線としています)

 その紋次郎の口裏合わせの嘘が、ある奸計を企てていた人物たちを、慌てさせることになって・・・

 作品としてはシリーズ中、特に優れた出来映えとは言いがたいのですが、私の幼い頃に馴染んだ土地が舞台とあって、興味深く読みました。
 このブログ記事のサブタイトルに「ふるさと文学館」と記した所以でもあります。
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2019年07月08日

消えた文代さん:乱歩と挿絵画家~番外篇その7

(承前)

 前回の記事で、

  文代さんと小林少年は同一人物である。

との仮説を立てることにより、「小林少年の謎」が解けるだけでなく、ほかにも散見される「不自然な点、不可解な事象」を理解することができると述べました。
 そのうちのいくつかは、すでにこれまでの記事である程度言及してもいるのですが、重複厭わず総まとめ的に説明してみます。

 「不自然な点、不可解な事象」を列挙し、上の仮説にしたがえばそれぞれがどのように理解できるかを記述します。

a) 明智探偵の変心
 「魔術師」(『講談倶楽部』昭和5年1月~12月)の冒頭、明智探偵は骨休み休暇で逗留するS湖畔の温泉宿で、玉村妙子と懇意となり、やがて相互に思いを寄せ始めます。
 ところが玉村家の事件に関わるうち、明智の心は彼女から離れ、厭うようにまでなります。(入れ替わるようにして、文代さんが明智の心を捉えはじめます)
 このあたりの心理的な綾が、作品の中で十分に描ききれていません。なぜ明智が彼女を厭うようになるのか理由が分らず、読んでいるうちは明智の身勝手さばかりが目立つような展開になるのです。

⇒もしこれが当初の構想(明智探偵が思いを寄せる対象が玉村進一少年であり奥村芳雄少年である、という設定)に基づいて執筆されていたなら、もう少し納得のいく展開になったでしょう。
 進一少年を可愛がりながら、次に出会った芳雄少年をも可愛がる―物語の終盤までそんな関係性で進んでも問題ありません。(かえって進一少年の正体が暴かれたときの意外性は、より効果的なものになるでしょう)
 なぜなら、年少者二人に、同時に目を掛けることは、ことさら倫理に反したことではないからです。
 ところが実際には進一少年は妙子に、芳雄少年は文代に取って代えて執筆されています。
 明智探偵が、初めに出会った妙子に思いを寄せ、次に出会った文代にもまた等しく思いを寄せる―というわけにはいきません。名探偵が二股かけた恋愛をすることなど、許されないのです。
 明智探偵が文代と出会ってからは、妙子への思いが醒めていき、やがて厭うようになる―そんな過程を描かざるを得ませんでした。
 構想の改変は急な思い付きでした。したがって、その過程の描写は拙速なものになってしまい、不自然さが目立つことになった・・・そう推測します。


b) 影の薄い進一少年
 「魔術師」には、妙子が弟のように可愛がる、進一という孤児の少年が登場します。
 あえて登場させたからには、物語の本筋に何らか関与してきそうな設定ですが、表舞台では目立った言動もなく、印象の薄い没個性的な少年です。
 終盤になって事件に関わる重大人物であることが判明しますが、それを納得せしめるだけの周到な伏線がないように思われます。
 「ああ、そういうことだったのか」という納得感よりも、「え?そんなのあり?」という強引さが際立つ設定になっています。

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2019年06月11日

120字の昭和史No.02~ダッコちゃんのまがい物

 時代:1960年(昭和35年)ごろ

昭和30年代の流行りもの―ホッピング、フラフープ、地球ゴマ、東京タワーの精密模型・・・そんな都会の流行をよそに、田舎小僧はまだまだ虫捕り、桑の実、川遊び。でもそんな田舎町にも押し寄せたダッコちゃんブーム!何が受けたのかいまだ謎ながら、腕に抱きつかせれば気分は都会っ子。

ダッコちゃん.jpg


 子どもの頃、大人に連れられて映画館へ行くと、たいていは本編上映の合い間にニュース映画がかかって、東京の流行りものが映し出されることがよくありました。

 ホッピングという、細長い軸棒にばねと足載せのついた遊具で、子どもたちが飛び跳ねている姿や、大勢の女学生たちが腰をくねらせながら輪っかを回転させるフラフープの光景など、これらのニュース映画で見たのではなかったのかしら。
 私は近所でこれらの現物を見かけた記憶はないのですが、ホッピングは胃下垂になるとか、フラフープは腸捻転になるとか、そんな噂が私の周りでも流れたことがあり、子どもに買い与えないで済むよう、親たちが予防線を張っていたのかも知れません。
 私はフラフープをてっきり、サーカスの猛獣の輪くぐり芸の輪っかが、こんな使われ方もされるんだと、妙な感心をしたものです。
 でも特にそうした遊びに、羨望を感じたこととかはなかったですね。
 

 竹馬や缶ぽっくりの腕を競い合うほうが面白そうでしたし、石を積み上げ川をせき止めた即席のプールで、素っ裸で泳ぐ爽快感は格別でした。
 桑畑は格好の遊び場で、かくれんぼや鬼ごっこ、桑の枝ではチャンバラごっこ、桑の実が熟せばそれをほおばり、真っ赤になった口の中を見せ合っては笑いころげたものです。

 子どもたちの間で流行したもの―という括りで昭和30年代を降り返ってみると、私の暮らしていた南信州の地方都市においても、はっきりとその流行の片鱗がうかがえたものと云えば、ダッコちゃんしかありません。

 この話題も確かニュース映画で取り上げられていたはず。
 若い女性や子どもたちがこの黒いビニール人形を腕にくっ付けて闊歩する、銀座あたりの風景が映し出されていたような。
 それでも都会という遠い国の話ぐらいに思っていたら、わが町の銀座通り(というのが実際にあるのです)にもちらほらと同じ光景が!
 これには若干心を動かさました。
 「欲しいな~欲しいな~」と妹と共同して母親にねだる頃になると、すでに慢性的な品薄状態だったようです。

 銀座通りにわりと大きなおもちゃ屋さん(というより人形店)があったのですが、ここでも品切れでがっかりした思い出があります。
 ちなみにここは伊賀屋人形店と言いまして、江戸時代から続く老舗です。数年前にここを訪れた時には、もっぱらフィギアやプラモデルを扱う卸問屋みたいな店構えになっていて、数十年前の面影はありませんでした。
 銀座通りもかつての賑わいはすっかり鳴りをひそめており、寂しい思いがしたものです。

 そんなわけで売ってないものはしょうがないと諦めかけたある日、何かのついでに別の通りを歩いていると、駄菓子屋の店頭の軒下に、ダッコちゃんが吊り下げられているのを見つけ、ようやく買ってもらえて兄妹ニコニコ顔・・・

 ところが―

 今から思えば粗悪なまがい物だったのかも知れません。
 腕に抱きつかせても、すぐに空気が漏れぶよぶよになるので、流行の最先端どころじゃなく、みっともないったらありゃしない。
 だいいち目がウィンクしなかったぞ。(ダッコちゃんの別名は、確かウィンキイ)
 空気と一緒に、都会っ子気分もすぐに凋んでしまいました

 本物の方は製造元がタカラビニール工業所、のちにタカラと改称―現在のタカラトミーの前身ですね。
 しかしこのとき、ダッコちゃんの爆発的な売れ行きに気を好くして増産体制を敷いたものの、日本中を席巻したブームは実に短期間で終息したとか。
 この過剰投資が災いして、タカラは一時経営危機を招いたそうですがそれを教訓とし、その後の快進撃を支える基盤が作り上げられたと言います。
 
 最近そのタカラトミーの子会社タカラトミーアーツから、『ザ昭和シリーズ』と銘打って、昭和の懐かし家電のミニチュア玩具が登場しました。
昭和スマアトテレビジョン.jpg
 

 スマホアプリを使用して、ちゃんと映像も映ります。
 画面が乱れて叩くと直る、という演出効果も盛り込まれていて、当時のあるある情景を彷彿とさせてくれます。

 テレビの他にもラジカセ、卓上レコードプレイヤーの三種が発売されており、こういうのに私は弱い。即三点買いしました。(実はまだいずれも未開封)

 ダッコちゃんから、少し脱線しましたが、平成から令和に時代は移っても、このブログでは昭和の時代にこだわって進めていきたいと思います。

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2019年06月10日

120字の昭和史No.01~うちにテレビがやって来た!

 時代:1961年(昭和36年)頃

うちにテレビがやって来た!友だちんちや大家さんちで、肩身狭くして見せてもらわなくても良くなった。NHKと民放1局、たったふたつのチャンネルだけど、電源入れて映るまで辛抱強く待たなきゃならなかったけど、粗い画面の白黒テレビだったけど・・・ついにテレビがやって来た!

白黒テレビのある茶の間.jpg

※台東区下町風俗資料館の展示品「白黒テレビ」
わが家の初代テレビもこんなふうでした。足こぎのミシンも、この写真と似たような配列で置いてあったなぁ~

 昭和30年代の半ば、私が保育園児だった頃―大昔(笑)の話です。
 まだテレビのない家庭も多く、よその家にお邪魔して観させてもらうというのは、ごく普通のことでした。
 
 近所の人たちがお茶の間に寄り合って、力道山のカラテチョップに歓声を上げる―という「ALWAYS~三丁目の夕日」のシーンは、多少の誇張はあるにせよ、私の住んでいた南信州の片田舎でも、ありふれた光景だったのです。

 私はというと、近所に同い年の仲良しがいて、ひとしきりおもてでその子と遊んだあと家に上がらせてもらい、「ナショナルキッド」や「まぼろし探偵」などの子ども向けドラマを一緒に楽しんだ―というのが、テレビに纏わる最初の記憶です。

 当時私は、チャンバラ映画(東映時代劇)を真似て、風呂敷で宗十郎頭巾の形に頭を蔽い、木の棒を振り回していたのですが、テレビ番組の影響は甚大でした。
 いつのまにか風呂敷は背に靡かせるものとなり、両手に拳銃を構え(るフリで)、悪漢役の友だちを撃ちまくるようになっていました。(月光仮面も七色仮面も、正義の味方は何故か二挺拳銃)

 いずれにせよ、子どもの遊びに風呂敷は大活躍でした。

 ほどなくして引っ越すことになり、同じ市内でも市街地の西方、山裾に民家がポツポツ立ち並ぶあたり、リンゴや梨や桃の果樹園の一角に新築された、長屋のような集合住宅に暮らすようになると、果樹園農家でもある大家さんの家が、テレビ鑑賞の劇場となりました。
 ここのテレビはとてもゴージャスで、観音扉を開くと大型のブラウン管が現れるタイプ。画面にはちらつき防止のフィルターが嵌めこまれていました。

 扉が開かれ、おもむろにスイッチが入れられると、暗い画面が次第に明るくなり番組が映し出されるのですが、真空管が暖まるまでの数十秒間の待ち時間が、とてもワクワクしたことを覚えています。
 まあ、そこで観たのは「ジェスチャー」とか「お笑い三人組」とか、穏当な番組ばかりでしたけど。

 他の住人たちも集まって、茶菓子や果物などもふるまわれ、大家店子の親睦会のような趣でした。
 私はというと、大人たちの雑談をわずらわしく思いながら、テレビの画面に集中しようと、いつも一番前に陣取っていた記憶があります。
 
 しかしやはり、他人の家でテレビを観るのは窮屈で、観る番組も子ども心にはさほど魅力的でなかったのか、お呼ばれされても伺わないことが多くなったようです。

 わが家に突然テレビがやって来たのは、そんなある日のことでした。

 親から何も知らされていなかったので、長屋の脇に軽トラックが止り、恰幅のいいオヤジが大きな箱を抱えて家に入って来たときには何ごとかと驚きました。
 箱の中から現れたのは、NEC製16インチのテレビ受像機―と知った私が、狂喜乱舞したかどうかはあまり覚えていません。

 部屋の隅に受像機が据えられ、屋根にアンテナを立てて線を繋げ、電源を入れて最初に映し出された映像は、何か古い洋画のワンシーン―「ジャングル・ブック」だったかも知れません。大蛇が河を泳いでいく場面をおぼろげに覚えています。

 それよりも印象深かったは、設置作業を終えた電器屋のオヤジが、「おめでとうございます」とニコニコ差し出してくれたデコレーションケーキ。
 家庭にテレビが据えられるのはこの当時、とてもめでたい一大イベントだったようです。

 ただしこの頃は、親による視聴制限が厳しく、好きな番組を好きなだけ楽しむ―という訳にはいきませんでした。

 朝は「おさるのピッキーちゃん」(正式タイトルは忘れました)を見てから保育園へ。
 この番組の中で、「よいこ」や「めばえ」といった小学館の幼児向け雑誌の宣伝をよくやっていました。この時間帯では永谷園のカレンダーふりかけのCMも流れていたな~

 保育園を引けてからすぐにテレビに齧りつく―ということも許されず、お楽しみは夕食前のひととき。「みんなのうた」「チロリン村とくるみの木」「こどもニュース」「ふしぎな少年」「ものしり博士」など。

 夜は母親につき合って,「夢であいましょう」「若い季節」「事件記者」「咲子さんちょっと」「シャボン玉ホリデー」「ララミー牧場」「ルーシー・ショー」など。
 テレビの前に蒲団を敷いて、寝っころがりながら観ていたので、途中で寝入ってしまうことが多かったですが。

 やはり平日の7時台や土日は子ども向けの番組が多く、いくつかは観ることが許されました。
 「ポンポン大将」「名犬ラッシー」「テケテケおじさん」「三バカ大将」「ちびっこ大将」「ハイウェイパトロール」「怪傑ゾロ」「ジャングル・ジム」「ライフルマン」など。

 こうして並べてみると、なんだか随分と観てますね。
 それらの番組が、ほんの断片的な映像記憶とともに、懐かしく思い出されます。

 特に楽しみながら観た番組については、おいおい「120字のテレビ館」のほうで取り上げていきたいと思います。


posted by Pendako at 11:59| Comment(0) | 120字の昭和史 | 更新情報をチェックする
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